目次
第1章 速く走れなかった少年
1台のレーシングカーは、まず紙の上で形になります。
その白い紙に最初の線を引く役目が、デザイナーです。
由良拓也(ゆら たくや)さんは、その線を引き続けた人でした。
日本を代表するレーシングカーデザイナーです。
生まれたのは1951年8月21日、東京でした。
由良さんの感覚は、幼い頃の家庭で養われました。
父親の由良玲吉さんは、工業デザイナーとして活躍した人です。
日本大学芸術学部では教授も務めました。
新しいものに目がない人でもありました。
テレビが白黒からカラーへと変わっていく時代でした。
玲吉さんは、その頃の新製品を次々と自宅へ持ち込みました。
クルマもそのひとつです。
母親がハンドルを握っていたのはルノー4CVでした。
自家用車のある家庭そのものが、まだ少なかった頃の話です。
女性が運転するだけで人目を引いた時代でもありました。
由良家がどれほど時代の先を行っていたかが伝わってきます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 父・由良玲吉 | 工業デザイナー |
| 肩書き | 日本大学芸術学部の教授 |
| 母の愛車 | ルノー4CV |
| 家庭の特徴 | 新商品が集まる先進的な家 |
父・玲吉さんの教え子には、のちにレース界で名を上げる人物がいました。
生沢徹(いくざわ てつ)さんです。
本田宗一郎さんの長男、本田博俊(ほんだ ひろとし)さんもそのひとりでした。
生沢さんも本田さんも、恩師の息子である由良さんと、のちのち深く関わっていきます。
こうした大人たちに囲まれて、由良少年はレーシングカーに夢中になりました。
夢中になれば、自分でもハンドルを握りたくなります。
| 人物 | 由良との関係 |
|---|---|
| 生沢徹 | 玲吉の教え子、のちのレーススター |
| 本田博俊 | 本田宗一郎の長男 |
| つながり | 恩師の息子として深く関わる |
ところが、ほどなく由良さんは気づきます。
自分は速くないのです。
周囲には、運転がうまくて速い人がいくらでもいました。
その事実を受け入れるのに、長い時間はかかりませんでした。
ここで由良さんの関心が、すっと横にずれます。
走らせるのではなく、作る。
クルマを速く走らせる側ではなく、速いクルマを生み出す側へと向かったのです。
これが、デザイナー由良拓也の最初の一歩になりました。
| 段階 | 内容 |
|---|---|
| 気づき | 自分は速くないと自覚する |
| 環境 | 周りに速い人が多すぎた |
| 転換 | 走らせる側から作る側へ |
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 由良拓也 | 1951年東京生まれのレーシングカーデザイナー |
| 父・由良玲吉 | 工業デザイナーで日大芸術学部の教授 |
| 速くない自覚 | 自分は速く走れないと早くに気づく |
| 出発点 | 走らせる側から作る側へ向かう |
| 引用元・参照元 |
|---|
| Wikipedia「由良拓也」 |
| ahead/CARPRIME「違いの分かる男の現在 由良拓也はなぜモチベーションが途切れないのか」(2014年8月) |
| Weblio辞書「由良拓也」 |
| ニコニコ大百科「由良拓也」 |
第2章 京都の屋根裏で過ごした無給の日々
由良さんがレーシングカー作りへ踏み込む入口は、1軒のガレージでした。
目黒区の柿の木坂にあったそのガレージは、三村信昭さんと三村健治さんの兄弟が興したエバカーズのものです。
そこに、のちに名門コンストラクター童夢を立ち上げる林みのるさんが加わっていました。
当時の由良さんは17歳でした。
たびたび見学にやってくる少年を、林さんは気持ちよく迎え入れました。
父が工業デザインの第一人者だったことも追い風になります。
由良少年は、レースカーのボディ製作に欠かせないFRPの造形技術を、見よう見まねで覚えていきました。
やがて第2回東京レーシングカーショーの準備にも手を貸すようになります。
柿の木坂へ通う日々が始まりました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | 目黒区・柿の木坂のガレージ |
| 主 | 三村兄弟のエバカーズ |
| 同席 | のちに童夢を興す林みのる |
| 当時 | 17歳の由良を迎え入れる |
そして由良さんは、思い切った決断をします。
18歳で高専を中退しました。
林さんの京都の実家へ転がり込みます。
寝床にしたのは屋根裏部屋でした。
そこで来る日も来る日も、デザイン画を描き続けたのです。
給料は出ません。
無給の丁稚奉公でした。
それでも由良さんに迷いはありませんでした。
本人はのちに、こう書き残しています。
「レースカーを作ることに生き甲斐を感じ、進むべき道が見えていたボクにとって、もう学生であることは何の意味もなかった」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 決断 | 18歳で高専を中退 |
| 移った先 | 林の京都の実家 |
| 暮らし | 屋根裏部屋で無給の丁稚奉公 |
| 日課 | ひたすらデザイン画を描く |
学校という安全な居場所を、由良さんは自分の意思で手放しました。
その代わりに、好きなことだけに打ち込める毎日を手に入れます。
屋根裏部屋には、鉛筆が紙を走る音だけが響いていました。
ここが、デザイナー由良拓也の本当のスタート地点になりました。
| 失ったもの | 得たもの |
|---|---|
| 学生の身分 | 没頭できる日々 |
| 安全な居場所 | 進むべき道の確信 |
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 柿の木坂 | エバカーズのガレージで林みのると出会う |
| 17歳 | 見学から手伝いへ、FRP造形を習得 |
| 18歳で中退 | 高専をやめ京都の屋根裏で暮らす |
| 無給の丁稚奉公 | 給料なしでデザイン画を描き続ける |
| 引用元・参照元 |
|---|
| ムーンクラフト公式コラム「ゆらたく屋」 |
| Motorz「好きなことを仕事にした大人レベル99。レーシングカーデザイナー・由良拓也さん」 |
| Wikipedia「林みのる」 |
第3章 「空気が見える」と呼ばれるまで
由良さんが初めて設計を任されたマシンがあります。
1971年のパシフィックF2000です。
東京R&Dを率いる小野昌朗さんからの依頼でした。
戦闘機を思わせる意欲作でしたが、肝心のカテゴリーが成立せず、幻のマシンに終わります。
それでも、由良さんの腕前はすぐに広まっていきました。
とりわけ目を引いたのは、空気の流れを読む独特の感覚です。
当時は風洞も計算機もありません。
由良さんは、空気の流れを頭の中で思い描きました。
ここはこうあるべきだと、迷いなく言い切れる自信があったのです。
やがて、こんなふうに呼ばれるようになります。
「彼には空気が見える」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 処女作 | 1971年 パシフィックF2000 |
| 時代背景 | 風洞も計算機もない |
| 手法 | 頭の中で空気を読む |
| 評価 | 「彼には空気が見える」 |
その評判を決定づけた出来事が、1976年に起こります。
日本で初めてのF1グランプリ、F1世界選手権イン・ジャパンです。
舞台は富士スピードウェイでした。
ここに、国産F1マシンコジマKE007が挑みます。
設計・デザインは小野昌朗さん、ボディ空力を手がけたのが由良さんでした。
ドライバーは長谷見昌弘さんです。
予選1回目、長谷見さんはいきなり4番手のタイムを記録します。
パドックはどよめきました。
ところが予選2回目、さらに上を狙った走りが裏目に出ます。
最終コーナーでフロントのサスペンションが折れました。
マシンはタイヤバリアに突っ込み、大破します。
長谷見さんは無事でしたが、車はほぼ全損でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 大会 | 1976年 F1世界選手権イン・ジャパン |
| マシン | 国産F1のコジマKE007 |
| 担当 | ボディを由良が手がける |
| 予選 | 4番手から一転、大破 |
スペアカーはありません。
誰もが、決勝出場は無理だと考えました。
しかし、ここからが日本のモータースポーツ史に残る名場面のひとつです。
観戦に訪れていた他チームのメカニックたちが、修復に加わりました。
本来はライバルにあたる人間が、手を差し伸べたのです。
ほぼ新造に近い作業は、およそ40時間後、決勝当日の朝に終わりました。
長谷見さんは10番グリッドから決勝に臨みます。
急ごしらえの車で、11位までこぎ着けました。
由良さんが手がけたマシンは、こうして多くの人の記憶に刻まれます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 協力 | 他チームのメカニックが修復に参加 |
| 所要 | 約40時間、決勝当日の朝に完成 |
| 結果 | 10番グリッドから11位で完走 |
| この章のまとめ | |
|---|---|
| パシフィックF2000 | 1971年の処女作、カテゴリー不成立で幻に |
| 空気が見える | 風洞なしで空力を読む独特の感覚 |
| コジマKE007 | 1976年F1日本GPで由良がボディを担当 |
| 11位完走 | 大破から40時間の修復で決勝を走り切る |
| 引用元・参照元 |
|---|
| FORMULA TIMES「1976年 コジマ KE007 フォード 長谷見昌弘」 |
| Wikipedia「コジマ・KE007」 |
| Motorz「レーシングカーデザイナー・由良拓也さん」 |
| enke「ヒューマントーク」 |
| ニコニコ大百科「由良拓也」 |
第4章 ル・マンを走った「そらまめ」
1977年、由良さんは1台の美しいマシンを送り出します。
富士グランチャンピオンレース用の紫電77です。
シャシー設計は森脇基恭さん、ボディを由良さんが担当しました。
名前は、旧日本海軍の戦闘機紫電改に由来します。
紫電77は、コックピットをガラスで覆ったクローズドボディが特徴でした。
ストレートでの速さを狙った、挑戦的な形です。
ただ、当時は軽い素材が手に入らず、ガラスの重さが足を引っ張りました。
雨が降れば視界も悪くなります。
美しさは評判になりましたが、成績は伸び悩みました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| マシン | 1977年の富士GC用「紫電77」 |
| 担当 | シャシーは森脇基恭、ボディは由良 |
| 特徴 | ガラスで覆ったクローズドボディ |
| 結果 | 美しいが成績は苦戦 |
流れが変わったのは1979年でした。
富士GCに、単座席のマシンが認められます。
ここで由良さんのMCSカウルが主流になりました。
MCSはムーンクラフトスペシャルの略です。
多くのマシンが、由良さんのカウルをまとって富士を駆けました。
ここで、勝利の中身を正確にお伝えします。
1979年の富士GCシリーズを制したのは、中嶋悟さんでした。
これは1つのレースでの勝利ではありません。
1シーズンを通して積み上げた末の、年間シリーズチャンピオンです。
のちにF1へ進む中嶋さんが、由良さんのカウルで年間王者になりました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 転機 | 1979年に単座席が解禁 |
| 普及 | MCSカウルが主流に |
| 1979年王者 | 中嶋悟 |
| 勝利の中身 | 1レースではなく年間チャンピオン |
そして1983年、由良さんの名は海を越えます。
舞台はル・マン24時間レースでした。
マツダが投入したのがマツダ717Cです。
丸くコロンとした形から、そらまめの愛称で親しまれました。
ボディ製作を、由良さんが受け持ちます。
ここでも、勝利の中身をはっきりさせておきます。
717Cが手にしたのは、グループCジュニアクラスでの優勝です。
総合優勝ではありません。
それでも、これは日本車として初めてのル・マン・クラス優勝でした。
マツダの2台はクラスで1-2フィニッシュを決め、総合では12位と18位に入っています。
エンジンは2ローターの13B型ロータリーでした。
最高出力はおよそ300馬力です。
総合トップを争うポルシェ956の、半分ほどのパワーにとどまります。
非力に思えますが、Cジュニアというクラスには、むしろ釣り合った出力でした。
足りないパワーを、空力で補ったのです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 戦績 | グループCジュニアクラス優勝(総合ではない) |
| 意義 | 日本車として初のル・マン・クラス優勝 |
| エンジン | 13B型ロータリー、約300馬力 |
| 比較 | ポルシェ956の半分のパワーを空力で補う |
なお、日本車として初めてル・マンを総合制覇したのは、1991年の787Bです。
これは717Cとは別のマシンで、由良さんが設計したものではありません。
ただし、その源流をたどると717Cにつながります。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 紫電77 | 1977年の富士GC用、美しいが苦戦 |
| 中嶋悟の年間王者 | 1979年富士GCをMCSカウルで制覇 |
| マツダ717C | 「そらまめ」、ル・マンでクラス優勝 |
| 787Bは別物 | 1991年の総合制覇は由良の設計ではない |
| 引用元・参照元 |
|---|
| autosport web/Racing on「マツダ717C」(2026年2月25日) |
| Wikipedia「マツダ・717C」 |
| Wikipedia「1983年のル・マン24時間レース」 |
| マツダ公式「ルマン24時間レース優勝メモリアルサイト」 |
| webCG「グラチャンの時代」 |
| Wikipedia「富士グランチャンピオンレース」 |
第5章 白いバイクと黒いバイク
レースの世界には、勝ち負けだけでは語り尽くせない物語があります。
鈴鹿8時間耐久ロードレース、通称鈴鹿8耐で起きた一件です。
1984年、3人の男が1台のバイクを作り上げました。
エンジンを担ったのは、無限の本田博俊さんです。
ボディを手がけたのは、ムーンクラフトの由良拓也さんでした。
チームを率いたのは、チームイクザワの生沢徹さんです。
本田さんは、第1章に登場した由良玲吉さんの教え子でした。
生沢さんも同じです。
つまり由良さんから見れば、父の縁でつながった仲間たちでした。
3人が作った白いバイクは、ホワイトブルと名づけられます。
ライダーには、マン島TTレースの王者ジョイ・ダンロップを迎えました。
| 役割 | 担当 |
|---|---|
| エンジン | 無限の本田博俊 |
| ボディ | ムーンクラフトの由良拓也 |
| チーム | チームイクザワの生沢徹 |
| 共通点 | 本田も生沢も玲吉の教え子 |
結果は、正直なところ振るいませんでした。
1984年は40位です。
翌1985年は「II」で挑みましたが、53位でした。
それでも由良さんが手がけた空力ボディは、流れるような姿で観客を魅了します。
ここで、思わぬ人物が動き出しました。
童夢の林みのるさんです。
少年時代の由良さんを屋根裏部屋に迎え入れた、あの林さんでした。
林さんは腹を立てていました。
親しい友人たちが、自分に声をかけずにバイクレースを始めたからです。
そこで林さんは、対抗して独自に参戦します。
作ったのは、ブラックブルでした。
車体には、当時最先端のカーボンモノコックを採用します。
名前はブラックですが色はホワイトで、これは素材のカーボンの色から来ているようです。
1985年に参戦し、38位でフィニッシュしました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ホワイトブル | 1984年40位、1985年「II」で53位 |
| ブラックブル | 林みのるが対抗して製作、1985年38位 |
| 技術 | ブラックブルはカーボンモノコック採用 |
林さんは、のちにこの一件をこう振り返っています。
友人たちが内緒でバイクレースを始めたから、腹いせに参戦した。
そして車名は、あくまでジョークだったと語りました。
順位こそ平凡でしたが、男たちの意地と友情がぶつかった一幕でした。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| ホワイトブル | 本田・由良・生沢の3人が作った白いバイク |
| 父の縁 | 本田も生沢も由良玲吉の教え子 |
| ブラックブル | 林みのるが対抗、カーボンで38位 |
| 意地と友情 | 車名はジョーク、順位を超えた一幕 |
| 引用元・参照元 |
|---|
| WEBヤングマシン「鈴鹿8耐・栄光のTT-F1マシン」 |
| Wikipedia「童夢(自動車会社)」 |
| Wikipedia「生沢徹」 |
| Wikipedia「本田博俊」 |
第6章 サーキットの外で見せた顔
由良さんの仕事は、サーキットの中だけに収まりませんでした。
お茶の間にも、その名は広がっていきます。
きっかけは、1984年頃のテレビCMでした。
ネスカフェ ゴールドブレンドの「違いが分かる男」シリーズに出演します。
当時の由良さんは、30歳くらいでした。
同じシリーズには、建築家の清家清さんも出ていました。
清家さんは、由良さんの父・玲吉さんと交友のある人物です。
ここでも、父の縁が顔をのぞかせます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出演 | 1984年頃のネスカフェCM |
| シリーズ | 「違いが分かる男」 |
| 共演 | 建築家・清家清 |
| 縁 | 清家は父・玲吉の交友相手 |
由良さんは、ヘルメットのデザインも手掛けました。
SHOEI製のF1ヘルメットを手がけています。
かぶったのは、そうそうたる顔ぶれです。
アイルトン・セナ。
ミカ・ハッキネン。
ジャン・アレジ。
鈴木亜久里さんも使いました。
世界の頂点で戦うドライバーたちが、由良デザインのヘルメットを選んだのです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 仕事 | SHOEI製F1ヘルメットのデザイン |
| 使用者 | セナ、ハッキネン、アレジ |
| 日本人 | 鈴木亜久里も使用 |
こんな話も残っています。
由良さんは2005年頃、自撮り棒の特許を取得していました。
ところが、誰も見向きもしません。
更新料がかかるならばと、その権利を手放してしまいます。
時が流れ、自撮り棒は世界中でブームになりました。
2015年のSUPER GTの表彰台でのことです。
ドライバーの千代勝正さんが自撮り棒で撮影しているのを見て、由良さんは特許の件を打ち明けました。
「僕ってこういうとこがあるんですよ。所詮そんなもんです」
苦笑いまじりの述懐でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 取得 | 2005年頃に自撮り棒の特許 |
| 放棄 | 更新料を惜しんで権利を手放す |
| その後 | 世界的なブームに |
| 述懐 | 「所詮そんなもんです」 |
空気を読む力は、エコの世界にも向かいました。
2007年、由良さんは20型プリウスをベースにエアロプリウスを作ります。
横浜ゴムとの共同企画で生まれた、1台限りのクルマでした。
2009年、このクルマで無給油チャレンジに挑みます。
東京から熊本空港まで、走行距離は1,677kmに達しました。
平均燃費は34.4km/Lを記録します。
ただし、この数字は空力だけの成果ではありません。
ヨコハマの低燃費タイヤ・DNA Earth-1と、丁寧なエコドライブを組み合わせた結果です。
空気を読むだけでなく、走り方まで読み切った1台でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 製作 | 2007年、横浜ゴムとの1台限りの企画車 |
| 挑戦 | 東京〜熊本1,677kmを無給油 |
| 燃費 | 平均34.4km/L |
| 要因 | 空力に低燃費タイヤとエコドライブ |
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 違いが分かる男 | 1984年頃のネスカフェCMに出演 |
| SHOEIヘルメット | セナら世界の頂点が選んだデザイン |
| 自撮り棒の特許 | 2005年頃に取得するも権利を放棄 |
| エアロプリウス | 1,677km無給油、34.4km/Lを記録 |
| 引用元・参照元 |
|---|
| 日本建築家協会インタビュー「好きなものをつくり続ける」 |
| Wikipedia「由良拓也」 |
| レスポンス「燃費男 1000マイル無給油 挑戦」(2009年7月2日) |
| 横浜ゴム公式リリース |
第7章 空気を読む仕事を、次の時代へ
2025年、ムーンクラフトは創立から50年を迎えました。
由良さんが24歳で立ち上げた会社です。
半世紀にわたって、数々の名車を世に送り出してきました。
そして2026年、ひとつの区切りが訪れます。
3月24日、ムーンクラフトは吸収合併を発表しました。
効力が発生したのは、4月1日です。
これにより、ムーンクラフトは法人としては消滅しました。
会社の名前は、こうして表舞台から姿を消します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 創立 | 1975年、2025年に50周年 |
| 合併発表 | 2026年3月24日 |
| 効力発生 | 2026年4月1日、法人は消滅 |
| 合併先 | 東レ・カーボンマジック |
とはいえ、すべてが消えてなくなるわけではありません。
空力開発などの事業は、合併先に引き継がれます。
由良さん自身は、役員を退きました。
別の会社を通じて、業務委託の形で支援を続けます。
本人はこう述べています。
「由良拓也個人として、新たなモノ創りやデザインに再挑戦していきたい」
幕引きであると同時に、次への宣言でもありました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 事業 | 空力開発などは承継される |
| 本人 | 役員を退任、業務委託で支援を継続 |
| 意思 | 「新たなモノ創りに再挑戦」 |
ここで注目したいのは、吸収合併した側の会社です。
ムーンクラフトを引き継いだのは、東レ・カーボンマジックという会社でした。
カーボン素材の専門企業で、いまは東レの100%子会社です。
この会社の源流をたどると、意外な名前にたどり着きます。
東レ・カーボンマジックは、2001年に童夢カーボンマジックとして生まれました。
作ったのは、林みのるさんの童夢です。
そう、少年時代の由良さんを屋根裏部屋に迎え入れた、あの林さんの会社でした。
その後、2013年に東レが全株式を取得し、いまの社名になります。
ですから現在は、林さんの会社ではありません。
それでも、源流はたしかに林さんの童夢にあります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 2001年 | 童夢カーボンマジックとして誕生 |
| 創設 | 林みのるの童夢が作った会社 |
| 2013年 | 東レが全株式を取得 |
| 現在 | 東レの100%子会社 |
17歳の少年を迎え入れた林さん由来の会社が、巡り巡って、50年後の由良さんの仕事を引き受ける側になったのです。
2人の物語は、半世紀をかけてひとつの輪を結びます。
空気を読み続けた男の仕事は、こうして次の時代へと受け継がれていきます。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 50年の節目 | 1975年創立、2025年に50周年 |
| 2026年の合併 | 4月1日に吸収合併、法人は消滅 |
| 事業の承継 | 空力開発は東レ・カーボンマジックへ |
| 結ばれた輪 | 合併先の源流は林みのるの童夢 |
| 引用元・参照元 |
|---|
| Car Watch「東レ・カーボンマジック、由良拓也氏のムーンクラフトを吸収合併」(2026年3月24日) |
| autosport web「東レ・カーボンマジックがムーンクラフトを吸収合併」(2026年3月24日) |
| motorsport.com(2026年3月24日) |
| Wikipedia「東レ・カーボンマジック」 |
| Wikipedia「林みのる」 |

