第1章 ウィリアムズというチームの「ずっといる」という凄さ
F1というスポーツは、本当に冷たい場所だと思います。
去年まであった名門が、ある日ふっと消えている。1990年代に強かった ジョーダン も、2000年代に存在感のあった ロータス も、いつの間にか別のチームに飲み込まれたり、消滅したりしています。1980年代のチャンピオン、 ブラバム も今はありません。 ティレル もありません。
そんななかで、いまもグリッドに名前を残し続けているチームがいくつかあります。 フェラーリ 、 マクラーレン 、そして ウィリアムズ 。
フェラーリは1950年のF1世界選手権第1回から一度も離脱したことがない、文字通りの唯一無二のチームです。マクラーレンも1966年から参戦を続けています。そしてウィリアムズは1977年のスペインGPでF1にデビューして以来、48年間、一度もF1を離脱したことがありません。
これがどれくらい凄いことなのか、改めて考えてみました。
48年というのは、生まれた赤ん坊が中年になるまでの時間です。そのあいだに、F1のレギュレーションは何度も大改革を経て、エンジンは3リッターV12からターボに、自然吸気V10に、V8に、そして現在の1.6リッターV6ターボハイブリッドへと変わりました。
空力もタイヤもまったく別物になっています。世界もF1も変わったのに、ウィリアムズだけはそこにいた。
しかも、これは「成績を残し続けた」という話ではありません。ウィリアムズは2018年、2019年、2020年と3年連続でコンストラクターズ最下位を経験しました。
普通の企業なら、撤退してもおかしくない状況です。でも、撤退しなかった。撤退する前に売却を選びました。
2020年8月、ウィリアムズ家はDorilton Capitalにチームを1億7,950万ドル(約278億円)で売却しました。それでもチーム名は残りました。Groveの工場も残った。FW46、FW47というマシン番号も残った。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| F1デビュー | 1977年スペインGP |
| 連続参戦年数 | 48年(マクラーレンに次ぐ長期参戦) |
| 最下位経験 | 2018〜2020年の3年連続 |
| 売却年 | 2020年8月(Dorilton Capital) |
| 売却額 | 1億7,950万ドル(約278億円) |
このチームを率いてきたのが、創設者の フランク・ウィリアムズ です。1942年生まれ、2021年に79歳で亡くなりました。
1977年にエンジニアの パトリック・ヘッド と組んで、オックスフォードシャーの古いカーペット倉庫でチームを立ち上げました。
1986年3月、フランクはフランス南部のポール・リカール・サーキットからニース空港へ向かう途中、運転していたレンタカーのフォード・シエラのハンドル操作を誤り、横転事故で頸髄を損傷しました。
四肢麻痺。それでも事故から9カ月足らずでチームに戻り、以後35年間、車椅子から世界選手権を9度コンストラクターズ・チャンピオンに、7度ドライバーズ・チャンピオンに導いた人物です。
The Raceは、ウィリアムズ家のチーム経営について「2020年に売却するまで、43年間ウィリアムズ家の支配下にあった」と書いていました。F1パドックで最後の「家族経営チーム」だった、ということです。
クルマ好きの感覚としても、これは凄い話だと思います。フェラーリには国家的なバックアップがあり、マクラーレンには企業としての厚みがある。でもウィリアムズは、文字通り一家族で、しかも車椅子の創設者が引っ張ってきた。それが48年続いた。
そして物語の主役は、その娘── クレア・ウィリアムズ に引き継がれます。
次の章では、ウィリアムズが「ただ続いた」のではなく、F1史上2位の戴冠回数を誇る黄金期があったことを書いていきます。マンセル、プロスト、ヒル、ビルヌーヴ。あの時代を知っているか知らないかで、いまのウィリアムズの見え方は全然違ってくるはずです。
第2章 9つのコンストラクターズ、7人のチャンピオン
ウィリアムズの最盛期がどれくらい凄かったのか。これは正直、いま20代でF1を見始めた人にはピンとこない話なのかもしれません。
数字で言うと、ウィリアムズは1980年から1997年までの間に、コンストラクターズ・タイトルを9回、ドライバーズ・タイトルを7回獲得しています。
コンストラクターズ9回というのは、フェラーリに次ぐ歴代2位です。マクラーレンより多い。メルセデスのハイブリッド時代より多い。レッドブルより多い。
Formula One History の集計によれば、F1で100勝以上を達成したのはフェラーリ、マクラーレン、メルセデス、レッドブル、そしてウィリアムズの5チームだけだそうです。ウィリアムズの100勝目は1997年イギリスGPで、ジャック・ヴィルヌーヴが達成しました。
歴代ドライバーズ・チャンピオンの顔ぶれも、いま読み返すとちょっとめまいがします。
| 年 | チャンピオン |
|---|---|
| 1980年 | アラン・ジョーンズ |
| 1982年 | ケケ・ロズベルグ |
| 1987年 | ネルソン・ピケ |
| 1992年 | ナイジェル・マンセル |
| 1993年 | アラン・プロスト |
| 1996年 | デイモン・ヒル |
| 1997年 | ジャック・ヴィルヌーヴ |
7人。ピケ、マンセル、プロストの3人は他チームでもチャンピオンを獲っている偉大なドライバーですし、ロズベルグは現メルセデスのドライバー、ニコ・ロズベルグの父親、ヒルは1962年のグラハム・ヒルの息子。ヴィルヌーヴは1978年のジル・ヴィルヌーヴの息子。
F1界の名家の血が、ウィリアムズで一度に開花した時代 でした。
最盛期を支えたのは、エンジン・パートナーの選択でした。
1980年代後半、ウィリアムズはホンダと組みました。1986年と1987年、Williams-Honda の組み合わせで2年連続のコンストラクターズ・タイトル。マンセルとピケが直接対決した1986年シーズンは、F1史でもとくに激しい戦いだったと語り継がれています。
そのホンダが1988年にマクラーレンへ離れていったあと、ウィリアムズはルノーと組みます。これがハマる。
Atlassian Williams Racing のチーム公式記事によれば、ルノーの3.5リッターV10エンジンと、1991年に復帰したナイジェル・マンセル、そしてエイドリアン・ニューウェイの加入が転機になった、ということです。
そして1992年。マンセルがFW14Bでシーズン開幕5連勝を記録し、ドライバーズ・タイトルを獲得しました。FW14Bはアクティブサスペンションを採用した革新的なマシンでした。
アクティブサスペンションは、後にレギュレーションで禁止される運命のテクノロジーですが、当時のウィリアムズはどのチームよりも先を走っていました。
クルマ好きの感覚としても、あの頃のウィリアムズの青と黄色(キャメル)、それから後の青と白(ロスマンズ)のカラーリングは、本当に強さの象徴でした。
ストレートで信じられないくらい速い。コーナーでも安定している。エンジン音が他チームとは違う。
ただし、最盛期にも影はありました。1994年5月1日、イモラのサンマリノGPで、アイルトン・セナがウィリアムズFW16を駆って事故死しました。3度の世界チャンピオン、34歳。
前日にはローランド・ラッツェンバーガーが予選で命を落としており、F1史上最も暗い週末となりました。
イタリアの検察はステアリングコラムの破断疑惑でフランク・ウィリアムズ、パトリック・ヘッド、エイドリアン・ニューウェイの3人を過失致死罪で起訴しました。最終的に3人とも無罪となりますが、チームと家族にとって、永遠に消えない傷 になったはずです。
それでもウィリアムズは止まりませんでした。1996年にデイモン・ヒル、1997年にジャック・ヴィルヌーヴがチャンピオンに。そして1997年シーズン終了でルノーがF1から撤退します。
| 黄金期の主要数字 | 内容 |
|---|---|
| コンストラクターズ獲得 | 9回(フェラーリに次ぐ歴代2位) |
| ドライバーズ獲得 | 7回 |
| 通算勝利 | 100勝以上(F1史上5チームのみ) |
| 100勝目達成者 | 1997年イギリスGP、J.ヴィルヌーヴ |
| 最盛期の期間 | 1980年〜1997年(17年間) |
ここがひとつの分水嶺だった、と私は思っています。
ルノーがいなくなった後、ウィリアムズはBMWと組みました。それはそれで悪くなかった。レースには勝った。でも、タイトルは戻ってこなかった のです。
1997年のヴィルヌーヴ以降、ウィリアムズのドライバーはチャンピオンを獲得していません。28年経った2026年のいまも、です。
ウィリアムズはこのあと、2000年代、2010年代と長い坂を下っていきます。最盛期を知るファンほど、この下り坂を見るのが辛かった。次の章では、 「下り坂はゆっくり、でも確実だった」 という25年間の話を書いていきます。
第3章 ゆっくり、でも確実に下る坂
ウィリアムズの2000年代以降をどう書くか、けっこう迷いました。
凋落の物語、と言ってしまえば一言で済む。でも実際の坂道は、それほど急ではなかったように思います。むしろ、ゆっくり、ゆっくり下っていって、気づいたときには取り返しがつかない位置にいた、というほうが近い。
転換点は1997年シーズン終了。ルノーがF1から撤退します。ウィリアムズの5回のコンストラクターズ・タイトルを支えてきたエンジンが消えました。
しかも同じタイミングで、伝説的な空力デザイナー、エイドリアン・ニューウェイがマクラーレンへ移籍しています。BMWブログの記事によれば、エンジンとデザイナーを同時に失ったことが、後の長期低迷の遠因になった、ということです。
ここからウィリアムズはBMWと組みます。6年契約、2000年から2005年まで。
これが、けっこう惜しい時代でした。The Race の記事を読み返してみると、2003年のFW25は一時期F1で最速のマシンだったそうです。
フアン・パブロ・モントーヤがチャンピオン争いに加わり、最終ラウンド近くまでタイトル戦線にいました。ただ、ブリヂストンとフェラーリがミシュランのフロントタイヤを違法と訴え、急遽タイヤ変更を強いられて勢いを失いました。
| BMW時代(2000-2005年) | 内容 |
|---|---|
| 契約期間 | 6年 |
| 最速マシン | 2003年のFW25 |
| 主要ドライバー | R.シューマッハ、J.P.モントーヤ |
| 通算勝利 | 10勝 |
| タイトル | 0回(ドライバーズ・コンストラクターズとも) |
ラルフ・シューマッハとフアン・パブロ・モントーヤ。ふたりとも一流のドライバーで、レースには勝てた。でも、ドライバーズとコンストラクターズのタイトルには、結局一度も届きませんでした。これがBMWの不満につながります。
2005年、BMWはウィリアムズを買収したいと申し入れますが、フランクは売却を拒否します。BMWは仕方なくザウバーを買収して自前のチームを立ち上げる方向へ。ウィリアムズはコスワースのカスタマー・エンジンに戻ることになりました。
2006年、ウィリアムズはコンストラクターズ8位で、デビュー以来最悪の成績を記録します。
皮肉なことに、この年のドライバーはマーク・ウェバーと、ケケ・ロズベルグの息子ニコ・ロズベルグ。ニコは2016年にメルセデスでチャンピオンになりますが、それはウィリアムズを離れてから10年後の話です。
ここから先は、本当に長い停滞期に入ります。
2007年から2011年まで、ウィリアムズはコンストラクターズで4位から9位の間を行ったり来たりしました。
中団からときどき上に顔を出す、でも勝てない。表彰台にもなかなか登れない。フェラーリやマクラーレン、新興勢力のレッドブルとの差は開く一方でした。
そして2012年5月、パストール・マルドナードがスペインGPで勝利します。モントーヤが2004年のブラジルGPで勝って以来、8年ぶりのウィリアムズの優勝でした。
当時のニュースを読み返すと、「フレーク(まぐれ)の勝利」という表現がやけに目につきます。実際、ベネズエラから多額のスポンサー資金を持ち込んだマルドナードは、必ずしもF1界で評価の高いドライバーではありませんでした。それでも、ウィリアムズが勝った。
そして驚くべきことに、この2012年スペインGPの優勝が、いまに至るまでウィリアムズの最後の勝利となっています。14年前。フェラーリやマクラーレンの最近の優勝と比べると、その長さがちょっと信じられない。
| 2000年代以降の節目 | 出来事 |
|---|---|
| 1997年 | ルノー撤退、ニューウェイ移籍 |
| 2005年 | BMWパートナーシップ終了 |
| 2006年 | コスワース回帰、コンストラクターズ8位 |
| 2012年スペインGP | マルドナード優勝(最後の勝利) |
| 2013年 | 5ポイント、9位(最悪期) |
| 2021年ベルギーGP | ラッセル3位(最後の表彰台) |
正直に言って、わかりません。ウィリアムズがなぜここまで坂を下ったのか。エンジン・パートナーの問題なのか、財政的なリソースの差なのか、組織の老朽化なのか。
複数の要因が絡んでいるとは思いますが、ひとつ確かなのは、F1という競技がこの20年間で「金がモノを言うスポーツ」に大きく傾いた ということです。
メルセデス、フェラーリ、レッドブルといった工場を持つチームと、メーカー系ではない家族経営のウィリアムズでは、開発予算が桁違いでした。
そして2013年、ウィリアムズはコンストラクターズ9位、わずか5ポイントという、創設以来最悪の成績に沈みます。
それまで正式なチーム代表は父フランクでしたが、この2013年に、長女クレアが副チーム代表に就任することになります。
次の章では、父フランクから娘クレアへの継承を書いていきます。母ヴァージニアの死、発表の延期、副の肩書きが意味したもの。 「彼女は事実上のチーム代表だったが、最後まで『副』だった」 という、ウィリアムズという家族の物語の核心に入っていきます。
第4章 父から娘へ、2013年の継承
2013年というのは、ウィリアムズという家族にとって本当に重い年でした。
第3章で書いたとおり、その年のウィリアムズはコンストラクターズ9位、わずか5ポイント。創設以来最悪の成績を記録します。
チームは坂を下り続けていた。そんな状況のなか、創設者フランクは70歳を迎え、組織としての継承を真剣に考え始めていました。
そこで指名されたのが、フランクの長女、 クレア・ウィリアムズ です。当時36歳。
ただ、クレアの就任発表は、本来は2013年シーズン開幕前に行われる予定でした。シーズン開幕戦のオーストラリアGPは3月17日。発表のタイミングはそのあたりに合わせる計画だったようです。
ところが、3月7日。母ヴァージニアが、2年半に及ぶがんとの闘病の末、66歳で亡くなりました。
2010年に診断を受け、最後はオックスフォードシャー州グローブの自宅で、家族に見守られて。
フランクの妻、クレアの母、ウィリアムズ・ファミリーの精神的支柱。1986年にフランクが交通事故で四肢麻痺になったあと、彼を支え続け、チームの初期にはヴァージニアが自分の資金を投じてチームを存続させたこともあった人。
1991年には『A Different Kind of Life』という自伝を書いていて、F1関係者には今でも愛読書として知られています。そのヴァージニアが亡くなった。
家族としてもチームとしても、まずは喪に服する必要がありました。ウィリアムズ・ファミリーは、家族のプライバシーへの配慮から、発表を3月27日まで延期します。
そして公式声明には、フランクの言葉が記されました。「この任命にはヴァージニアの祝福も得ていた。彼女はクレアが私の隣でこの役割を引き受けるのを、誇りに思っただろう」。
母の死と、娘の就任。この2つが、わずか20日間のあいだに重なった年でした。
| 2013年3月、2つの出来事 | 日付 |
|---|---|
| 母ヴァージニア死去(66歳) | 3月7日 |
| クレア副チーム代表就任発表 | 3月27日 |
| 当初の発表予定 | シーズン開幕前 |
| 延期理由 | 家族のプライバシー配慮 |
ここで、クレアの肩書きについてきちんと書いておきたいと思います。
クレアの正式タイトルは「Deputy Team Principal(副チーム代表)」。チーム代表は引き続き父フランクでした。でも、実際の日々のチーム運営はクレアが担当していました。
父は車椅子の身で、常にレース現場に行けるわけではない。クレアが事実上のチームボス、というのが現実でした。英語圏のF1メディアは、彼女のことを 「de facto team principal(事実上のチーム代表)」 と呼んでいます。
| クレアの立場 | 詳細 |
|---|---|
| 正式肩書き | 副チーム代表(Deputy Team Principal) |
| 実際の役割 | 日常的なチーム運営の全般 |
| 父フランクの立場 | 正式なチーム代表(保持) |
| 英語圏メディアの表現 | de facto team principal |
クレアは1976年生まれ。ニューカッスル大学で政治学を学び、1999年に卒業。シルバーストン・サーキットの広報担当からキャリアをスタートし、2002年にウィリアムズに広報担当として入社。
そこから10年ちょっとで、副チーム代表まで上り詰めた ことになります。
ただし、これは「父の威光で昇進した」というシンプルな話ではないと思います。
ESPNの記事によれば、クレアは2010年に広報部長に昇進したあと、3年間で4回の昇進を経験しています。
投資家対応の責任者、マーケティング・コミュニケーション部長、コマーシャル・ディレクター、そして副チーム代表。さらに2012年に父フランクが取締役会から退いたとき、ウィリアムズ家を代表して取締役の座にも就いた。
スポンサー契約、上場手続き、ブランド戦略、そういう商業的な部分でも実績を残してきたうえでの就任でした。
それでも当時のRaceFansのコメント欄には、 「メルセデスが彼女を引き抜くまであと5分」 みたいな冗談まで投稿されていて、業界内ではむしろ「フランクがついに後継者を見つけた」と歓迎されたムードもあったようです。
次の章では、クレアが引き継いだ直後の2014年と2015年、ウィリアムズがコンストラクターズで2年連続3位という奇跡的な復活を遂げた話を書いていきます。
そして、その後の急降下。 「彼女は最高の時期から始まり、最低の時期で終わった」 という、運命のようなカーブが見えてきます。
第5章 二度の3位、そして急降下
クレアが副チーム代表に就任した直後、ウィリアムズには思いがけない追い風が吹きました。
2014年から、F1は1.6リッターV6ターボハイブリッド時代に入ります。ウィリアムズは長年使ってきたコスワース・エンジンから、メルセデスの新しいパワーユニット PU106A Hybrid に切り替えました。これがハマる。
開幕前のテストから、ウィリアムズの2014年マシンFW36のストレートスピードが圧倒的に速いと、F1関係者の間で評判になります。
2014年シーズン、ウィリアムズはコンストラクターズ3位。9回の表彰台、320ポイント。前年のたった5ポイントから、いきなり64倍です。
| 2014年の復活劇 | 数字 |
|---|---|
| 前年ポイント | 5ポイント |
| 2014年ポイント | 320ポイント(64倍) |
| 表彰台 | 9回 |
| 最終順位 | コンストラクターズ3位 |
| パワーユニット | メルセデスPU106A Hybrid |
Bleacher Reportの当時の記事に、面白い記述がありました。「マッサとボッタスの2人で、2014年だけで9回の表彰台。それ以前の9年間で、ウィリアムズが獲得した表彰台の合計は8回だった」。
つまり1年で過去9年間分以上を稼いだ。これがどれだけ劇的な復活だったか、わかると思います。
ドライバーは、フェラーリから移籍してきたフェリペ・マッサと、3年目のバルテリ・ボッタス。マッサはフェラーリで「ナンバー2」の立場に長く甘んじていたベテラン、ボッタスは将来のチャンピオン候補と目されていた若手。
クレアは後年「自分のお気に入りのドライバーラインナップだった」 と語っています。
2015年も同じ体制でコンストラクターズ3位。2年連続で3位を確保しました。チーム代表として就任直後の2年連続3位というのは、けっこう凄い実績だと思います。
ただ、ここから先が苦しい。
| 年 | コンストラクターズ順位 |
|---|---|
| 2014年 | 3位(320ポイント) |
| 2015年 | 3位 |
| 2016年 | 5位 |
| 2017年 | 5位 |
| 2018年 | 10位(7ポイント) |
| 2019年 | 10位(1ポイント) |
| 2020年 | 10位(0ポイント) |
2016年、ウィリアムズは5位に後退しました。原因は複数ありました。
ESPNの当時のシーズンレビューによれば、技術ディレクターのパット・シモンズが「シーズンを通じての開発の方向性が、十分な改善の機会をもたらさなかった」と認めています。同じメルセデスPUを使うフォース・インディアに、 「メルセデス・カスタマーの最上位」の座を奪われました 。
2017年も5位。ボッタスがメルセデスへ移籍し、代わりに18歳のランス・ストロールがF1デビュー。父親のローレンス・ストロールが多額の持ち込み資金を提供したと言われています。
この時期から、ウィリアムズの財政事情が苦しいことが目立つようになりました。
そして2018年。ここから本当の地獄が始まります。
2018年、ウィリアムズのドライバーはランス・ストロールとセルゲイ・シロトキン。シロトキンはロシア系の銀行 SMP Bank からの持ち込み資金で起用された無名のドライバーでした。マシンFW41は明らかに競争力を欠いていて、シーズンを通して7ポイント、最下位。
2019年は、もっとひどかった。シーズン開幕に間に合わずに2日遅れでテストに登場し、ジョージ・ラッセルとロバート・クビカが乗ったFW42は、グリッドで最も遅いマシンでした。
クビカは2011年のラリー事故で右手に重度の障害を負いながら、奇跡的にF1復帰を果たしていたポーランド人ベテラン。彼が獲得した1ポイント(ドイツGP10位)が、チームのシーズン唯一の得点となりました。
ここで2019年シーズン開幕前に、突然タイトル・スポンサーとして登場したのが ROKiT という通信会社でした。ジョナサン・ケンドリックという人物がオーナー。3年契約、初年度の支払いは1,900万ドル(約29億円)と報じられています。
ところが、2020年のCOVID-19によるシーズン延期が、すべてをひっくり返します。
レースの数が減り、ROKiTは「契約通りの権利が得られなかった」と主張して支払いを拒否。一方ウィリアムズは「ROKiT側の支払い遅延が問題だ」と反論。両者の関係は急速に悪化していきました。
2020年5月、ウィリアムズはROKiTとの契約を一方的に解除します。クレアは公式声明で「契約上の義務はすべて果たした」と発表しましたが、実態としては、タイトル・スポンサーが事実上消えたことになります。
| ROKiT問題の経緯 | 出来事 |
|---|---|
| 2019年1月 | ウィリアムズと3年契約 |
| 2020年5月 | ウィリアムズ側から契約解除 |
| 仲裁機関 | ロンドン国際仲裁裁判所 |
| 判決結果 | ウィリアムズ勝訴 |
| 和解金 | 約2,622万ポンド(約51億円) |
タイトル・スポンサーを失い、2020年シーズンは無印で開幕しました。マシンに大きなロゴはなく、青と白を基調としたシンプルな塗装。そしてこのシーズン、ウィリアムズは0ポイントでコンストラクターズ最下位を記録しました。
The Race の表現を借りると、 「ウィリアムズの技術的リーダーシップの不安定さが、復活への希望を阻んでいる」 という状況。
ここまで来ると、もう個々のドライバーやマシンの問題ではなく、チームの構造そのものが限界を迎えていたのだと思います。
クレアは後にBusiness of Sportのポッドキャストで、当時を振り返ってこう語っています。意訳すると、 「私たちは売り渋った売り手だった。人生がそういう道を辿らせた」 。
チームを売りたくなかった。でも、売らなければチームは消えてしまう。そんな矛盾のなかで、2020年の夏に大きな決断が下されることになります。
次の章では、2020年8月のDorilton Capitalへの売却、43年間続いたウィリアムズ家の経営の終わりを書いていきます。
1億7,950万ドル(約278億円)でチームを手放した夏。そして、9月のイタリアGPがクレアと父フランクの「最後のレース」になった話に進みます。
第6章 売却の決断、43年の終わり
2020年5月、ウィリアムズは「戦略的レビュー」を開始したと発表しました。これは「チームの売却を含む、あらゆる選択肢を検討する」という、F1の世界ではほぼ「売却します」と同義の表現でした。
そして3カ月後の 2020年8月21日 。ウィリアムズは米Dorilton Capitalに売却されます。
買収額は 1億5,200万ユーロ、当時のレートで1億7,950万ドル(約278億円) でした。
| 2020年8月21日の売却 | 内容 |
|---|---|
| 買い手 | Dorilton Capital(米ニューヨーク) |
| 買収額 | 1億5,200万ユーロ/1億7,950万ドル |
| 日本円換算 | 約278億円 |
| チーム名 | ウィリアムズ維持 |
| 本拠地 | オックスフォードシャー州グローブ継続 |
| マシン型番 | 「FW」プレフィックス維持 |
Dorilton Capitalというのはニューヨークとヒューストンにオフィスをもつプライベートインベストメントファームで、F1の世界ではほぼ無名でした。
ただ、Williams Racing 公式声明によれば、このグループは「長期投資のアプローチで知られている」とのことで、F1の伝統と文化を尊重することを約束していました。
実際、チーム名、本拠地、シャシー番号の「FW」というプレフィックス、これらすべてが維持されたのは、ウィリアムズ家のレガシーへの一定の敬意の表れだったと言えるかもしれません。
クレアは後に、売却を決断した理由について繰り返し語っています。 「ROKiTを訴えて勝訴し、3,000万ポンド(約58億円)の賠償が認められました。でも、彼らは払わなかった。それが2020年に大きな穴を開けたのです」 。
これに加えて、COVID-19のロックダウンが直撃します。 「メルボルンに着いたらCOVIDが来て、7月までレースができませんでした。レースをしないと、お金が入ってこないのです」 。
| 売却を決断した主要要因 | 内容 |
|---|---|
| ROKiT離脱 | タイトルスポンサー喪失 |
| COVID-19 | シーズン延期で収入なし |
| 2019年の損失 | 約1,300万ポンド(約25億円)の赤字 |
| 父フランクの状態 | 78歳、四肢麻痺で経営関与困難 |
最後の決め手は、シンプルにキャッシュフローの問題でした。レースをしなければ収入がない。スポンサーは払わない。借入は限界に近い。
そして、クレアの父フランクは78歳、四肢麻痺の状態で、もはや日常的に経営に関与できる状態ではない。チームを存続させるためには、外部資本を入れるしかなかった。
クレアは2024年9月、Business of Sportというポッドキャストで、当時の心境を率直に語っています。意訳すると、 「『あの娘は大げさだ』と思われるでしょうが、私は彼女(ウィリアムズ)を失った悲しみと、毎日生きていきます。F1に飽きたわけでも、現金化したかったわけでもありません。私たちは残りたかった。それが私たちの人生でした。私は自分の息子や甥たちのためにチームを運営したかったのです」 。
このコメントを読んだとき、書き手として正直、胸が痛くなりました。
クレアには、新オーナーDorilton Capitalから「チーム代表として残ってほしい」というオファーがあったそうです。彼女はそれを断りました。
2020年9月のイタリアGP(モンツァ)が、ウィリアムズ家としての最後のレースとなります。
このイタリアGP、家族経営として通算 739戦目 だったとAutoweekは報じています。1977年のスペインGPから始まって、739戦。43年間、一族のリーダーシップのもとで戦い続けた、その最後のレースでした。
レース後、ウィリアムズの従業員たちはクレアに、2014年のFW36のフロントウィングをプレゼントしました。チームの全社員のサインが入っていたそうです。
FW36は、第5章で書いた、彼女の在任中に最も輝いた年、コンストラクターズ3位を獲得した年のマシンです。書き手としては、このエピソードに何とも言えないものを感じました。社員たちがクレアの最高の瞬間を、最後に手渡したのです。
| 2020年9月、最後のイタリアGP | 詳細 |
|---|---|
| レース番号 | 家族経営として通算739戦目 |
| 期間 | 1977年から43年間 |
| 開催地 | モンツァ |
| 従業員からの贈り物 | FW36のフロントウィング |
| 贈り物の特別な点 | 全社員のサイン入り |
クレアは後に、もう一つ印象的な発言をしています。 「私たちは1年で間に合わなかった」 。
意味するところは、Netflixの『Drive to Survive』がF1に巨額の資金を呼び込み始めた、まさにその直前にウィリアムズを売却してしまった、という後悔でした。 「F1に流れ込んでくるお金は、いま、信じられない金額です。残念ながら、私たちはそれを1年逃しました」 。
歴史にIFはありません。でも、もしあと1年待てていたら。もしROKiTがちゃんと払っていたら。もしCOVIDが来ていなかったら。
そう考えると、43年の家族経営は、ほんとうに紙一重のところで終わった のかもしれません。
次の章では、クレアの個人的な物語に踏み込みます。チーム代表として1,800人の従業員を率い、シーズンごとに数百億円の予算を動かしていた女性が、夫からどんなプロポーズを受けたか。
そして、退任後の彼女がいま何をしているか。 ハリボーの指輪のエピソード から始まる章になります。
第7章 ハリボーの指輪、そしてその後
第5章と第6章は、けっこう重い話が続きました。チームが3年連続最下位になり、スポンサーが消え、43年の家族経営が終わった話。
この章では、もう少し違う角度から、クレア・ウィリアムズという一人の女性を見てみたいと思います。
書き手として今回いちばん印象に残ったエピソードがありました。クレアが夫マルク・ハリスから受けたプロポーズの話です。
2017年。クレアは妊娠していました。8カ月。お腹も大きい。チーム代表として日常的に1,800人の従業員を率い、シーズン中はパドックを駆け回り、スポンサーと交渉し、ドライバーと話し、エンジニアと議論する。F1という世界でトップ10チームを動かすことの重みを、毎日背負っていた女性です。
そんな彼女が、ある日、自宅のソファに座っていました。隣には夫のマルク。
そこでマルクが、ハリボーのキャンディーリングで、プロポーズをしたのです。
| ハリボーのプロポーズ | 詳細 |
|---|---|
| 年 | 2017年 |
| クレアの状態 | 妊娠8カ月 |
| 場所 | 自宅のソファ |
| 指輪 | ハリボーのキャンディー |
| 理由 | 本物の指輪のサイズが合わなかった |
ハリボー(Haribo)はドイツの老舗キャンディーメーカーです。日本だとグミベアで有名ですが、向こうではキャンディー型のリング(リング状のグミ)も売っていて、子供がよく食べているお菓子です。値段は1袋数百円。
なぜキャンディーリングだったかというと、 「妊娠8カ月で指のサイズが合わなくて、ちゃんとした指輪を買ってあげられなかったから」 だそうです。
これはクレア自身が、ウェディングドレスを作ったデザイナーのキャロライン・カスティリアーノとのインタビューで語っています。 「完全なサプライズでした。でも私はずっと『プロポーズするならソファでしてね』と言っていたんです」 。
書き手として、このエピソードに何とも言えないものを感じました。
イギリスの名門F1チームの事実上のボス。コンストラクターズ・タイトルを9回獲得した王朝の継承者。F1史上数少ない女性チームボスのうちの一人。そんな彼女が、自宅のソファで、お腹を大きくして、ハリボーのキャンディーで指輪をはめてもらう。
なんというか、人生って、こういうものなのかもしれません。
仕事ではマルティーニ・ストライプの華やかなチームを率いて、何百億円という予算を動かして、世界中のレースを飛び回って。でも、本当に大切な瞬間は、自宅のソファで、グミの指輪で、お腹の中の赤ちゃんと一緒に訪れる。
| クレアの家庭 | 詳細 |
|---|---|
| 夫 | マルク・ハリス(ランス・ストロールの元エージェント) |
| 長男 | ネイサニエル(ネイト)─2017年10月10日生まれ |
| 結婚式 | 2018年1月、ロンドンのクラリッジス |
| ウェディングドレス | キャロライン・カスティリアーノ |
その後、長男ネイサニエル(ネイト)が2017年10月10日に誕生。クレアは出産のため数戦のグランプリを欠場し、ネイトが生まれた当日には、ウィリアムズのTwitterアカウントから「Congratulations Claire and Marc!」というメッセージが投稿されました。
マルクは前妻との間に2人の娘がいて、ネイトには異母姉が2人います。
ちなみに、夫マルク・ハリスは、F1界では知られた人物です。News for Speedの記事によれば、マルクはランス・ストロールのエージェントでした。
ランス・ストロールというのは2017年からウィリアムズで走った、カナダ人ファッション・億万長者ローレンス・ストロールの息子です。つまりクレアは、自分のチームに所属するドライバーのエージェントと結婚した、ということになります。
F1パドックは狭い世界、と言ってしまえばそれまでですが、ちょっと面白い縁ですね。
結婚式は2018年1月、ロンドンの高級ホテル、クラリッジスで挙げられました。クレアはスワロフスキー・クリスタルをあしらったキャロライン・カスティリアーノのドレスを着て、 「ドレスを脱ぎたくなかった。毎年結婚記念日に着るつもり」 と語っていました。
さて、ハリボーの指輪の話から、もう少しクレアの「その後」を書いていきます。
2020年9月にウィリアムズを去ったあと、クレアは2年ほどF1の世界から距離を置いていました。 「F1を見ることをやめている」 という発言もあったほどです。
心の整理に時間が必要だった、ということだと思います。
ただ、2023年あたりから、彼女はF1の世界に少しずつ戻ってきました。
| 退任後のクレアの活動 | 内容 |
|---|---|
| Sir Frank Williams Academy設立 | 2023年4月 |
| Fortescue Zero | グローバル・ブランド・アンバサダー |
| Drive to Survive | 2024年・2025年シーズン解説者 |
| Spinal Injuries Association | 副会長 |
| サンタンデール銀行 | ブランド・アンバサダー |
特に印象的なのが、 Sir Frank Williams Academy という慈善活動です。これは脊髄損傷を負った人々への支援活動で、Spinal Injuries Association(脊髄損傷協会)と連携して2023年4月に設立されました。
父フランクが1986年の事故で四肢麻痺になりながらも、車椅子からF1チームを9度のチャンピオンに導いた人生を、別の形で受け継ぐためのプロジェクトです。
クレアは2024年からNetflixの『Drive to Survive』に、F1解説者として復帰しました。画面に映る彼女は、もうチーム代表のスーツ姿ではなく、外部の専門家として、客観的にチームを語る人になっていました。
書き手としても、これは時間が彼女を変えた、というよりは、時間が彼女を解放したのかもしれない、と感じます。
Business of Sport のポッドキャストで、クレアは新オーナーとチームの現在についてこう語っています。意訳すると、 「ジェームズ・ボウルズ(現チーム代表)がチームを率いるようになったのは天才的な選択だと思います。父も喜んだはずです」 。
これは父を失った娘の、本当に静かな祝福だと思いました。
そして、書き手としては、これからもF1のテレビ中継で、 「Williams」というロゴが画面の隅に映るたびに 、フランクとクレア、そしてヴァージニアの顔を、ちょっと思い出すんだろうな、と思います。
王朝を建てた人。王朝を看取った人。王朝を支えた人。3人とも、もう「正式なチーム」とは関係がありません。でも、ウィリアムズという名前がF1にある限り、彼らの物語はまだ終わっていない。そういう話だと、書き手は受け止めています。

