オートバイのロードレース世界選手権に、125ccという最も小さい排気量のクラスがありました。
そのクラスで2度の年間王者になった日本人がいます。
坂田和人 (さかた かずと)さん。1966年8月15日生まれ、東京都江東区 の出身です。
世界王者と聞くと、華やかな経歴を思い浮かべるかもしれません。
しかし坂田さんの歩みは、その印象とはかなり違います。
ひとことで言えば、坂田さんは 「自分のやり方を最後まで貫いた人」 でした。
目次
第1章 稼いだお金だけで走った男
まずは、坂田さんがどんな人物だったのかを整理しておきます。
| 坂田和人の基本プロフィール | 内容 |
|---|---|
| 出身・生年 | 東京都江東区 、1966年生まれ |
| 参戦期間 | 1991年から1999年 まで |
| 参戦クラス | 一貫して 125ccクラス のみ |
坂田さんは、20歳のころからレースを続けてきました。
その資金は、すべて自分で働いて稼いだお金でした。
トラックや ダンプ の運転で稼ぎ、朝から晩まで働きました。
工事現場で重機を操ることもありました。
そうして稼いだお金を、レースに注ぎ込んでいきました。
レースで得た賞金は、次のレースの費用ですぐに消えていきます。
ですから、貯金は別に自分の労働で作るしかありませんでした。
坂田さんには、はっきりとした信条がありました。
借金はしない 、ということです。
借金をすれば、自分が縛られてしまう。
納得して走るために、資金は自分で用意する。
そういう考え方でした。
ヨーロッパに渡ることになった24歳のとき、坂田さんはすでに、まとまったお金を手にしていました。
自活し、実家にも送金しながら貯めたお金は、約600万円 になっていたといいます。
レースの賞金ではなく、自分の労働で作ったお金です。
坂田さんは前年、全日本国際A級125ccクラスの王者になっていました。
そのうえで坂田さんが口にしていたのは、全日本のタイトルのことではありません。
「世界グランプリで王者になる」 という宣言でした。
| レース資金の哲学 | 内容 |
|---|---|
| 信条 | 借金はしない |
| 資金源 | ダンプ やトラックの運転 |
| 渡欧時の貯金 | 約600万円 を手にしていた |
この言葉が、ただの威勢のいい話ではなかったことは、後の戦績が証明します。
坂田さんは1991年から1999年まで、一貫して125ccクラスを走り続けました。
そして 1994年と1998年 の2回、シリーズ王者になります。
このほか1993年と1995年もシリーズ2位に入りました。
軽量級クラスにおける日本人全盛期をつくった一人でした。
ここで、ひとつ整理しておきたいことがあります。
モータースポーツの世界では「優勝」「勝利」という言葉が、2つの意味で使われます。
ひとつは、1回のレースで1位になること。
もうひとつは、年間を通じたポイントの合計で頂点に立つこと、つまりシリーズ王者です。
この記事で「年間王者」と書くときは、後者のシーズン総合のタイトルを指します。
坂田さんが2回手にしたのは、この年間王者のタイトルです。
| 用語 | 意味 |
|---|---|
| レースの勝利 | 1戦ごとの1位 |
| 年間王者 | シーズン総合のタイトル |
| 坂田さんの戴冠 | 1994年と1998年の 2回 |
驚かされるのは、世界王者になっても暮らしぶりが大きく変わらなかったことです。
世界選手権で年間2位になった1993年。
そのオフシーズン、坂田さんは千葉県内のカラオケ店で働いていました。
時給は 600円 だったといいます(Motorz)。
世界で2番目に速い男が、オフには時給600円で働く。
これが当時の、日本人プライベートライダーの現実でした。
坂田さんの強さは、恵まれた環境から生まれたものではありません。
むしろ、足りないものだらけの中から生まれました。
自分で稼ぎ、自分で決め、自分のやり方を曲げない。
その姿勢が、世界の頂点へとつながっていきます。
次の章では、坂田さんを語るうえで欠かせない、1993年の物語に入ります。
それは、親友の死と、初めてのグランプリ優勝をめぐる話です。
引用元 ’90年代、なぜ日本人は強かったのか。自分であり続けるための闘い ~坂田和人氏~ – ahead/CARPRIME、苦労とレースへのストイックさで125cc世界チャンピオンを獲得した坂田和人を知っていますか? – Motorz、坂田和人 – Wikipedia、坂田和人とは – Weblio辞書
第2章 1993年・親友の死と初めての勝利
坂田さんの世界選手権は、1991年に始まりました。
同じ年、若井伸之 さんと 上田昇 さんも、125ccクラスにフル参戦を開始します。
メーカーの手厚い支援を受けない、いわゆるプライベートの立場での挑戦でした。
3人は日本人プライベートライダーの先駆けとなり、欧州勢が支配してきた軽量級に切り込んでいきます。
| 日本人プライベーターの先駆け | 内容 |
|---|---|
| メンバー | 坂田和人 、若井伸之、上田昇の3人 |
| 立場 | メーカーの後ろ盾を持たない プライベート 参戦 |
| 参戦開始 | 1991年 から |
坂田さんの最初の2年は、順位だけ見れば地味なものでした。
1991年がランキング13位、1992年が11位です。
しかし速さの片鱗は見せていました。1992年には ポールポジションを3回 獲得しています。
予選で最速を記録しながら、決勝で取りこぼす。そういう時期でした。
転機は3年目の1993年に訪れます。
この年の坂田さんは、開幕から優勝争いに加わる速さを見せました。
ただし、勝利という最後の壁をなかなか越えられずにいました。
第4戦は、スペインの ヘレスサーキット で行われました。
この大会で、痛ましい事故が起こります。
親友の若井さんが、5月1日の予選中に命を落としたのです。
若井さんはこの年、125ccから 250ccクラス へ移っていました。
予選でピットロードを走行中、立ち入りが許されていない区域から飛び出した人物を避けようとして転倒します。
コンクリートの壁に激突し、搬送先の病院で亡くなりました。25歳でした。
長身で手足が長く、独特のフォームから 「フラミンゴ」 と呼ばれた選手でした。
| 1993年スペインGP | 内容 |
|---|---|
| 舞台 | ヘレスサーキット での悲劇 |
| 出来事 | 親友 若井伸之 が予選中の事故で死去 |
| 若井さんの在籍 | この年は 250ccクラス |
坂田さんと若井さんは、同じ年に世界へ挑んだ仲間でした。
その親友を、レースの現場で失ったのです。
坂田さんは決勝への出場を迷ったとされます。
しかし翌5月2日、坂田さんはスタートラインに並びました。
決勝で坂田さんは、序盤からトップに立ちます。
そして最後まで先頭を守り抜き、自身 初のグランプリ優勝 を果たしました。
終盤に追い上げた ラルフ・ウォルドマン を、0.602秒差 で抑えての勝利でした。
世界選手権に挑んで3年目での、待ち望んだ1勝でした。
勝者となった坂田さんの表情に、笑顔はありませんでした。
ゴールの後も、表彰台でも、坂田さんはこみ上げるものをこらえきれずにいました。
その様子は、世界へ配信される中継映像に記録されています。
親友を失った悲しみと、その親友に捧げる勝利とが、ひとつになった瞬間でした。
坂田さんは後に 「若井のためにと気力だけで頑張った」 と語っています。
| 亡き親友に捧げた初優勝 | 内容 |
|---|---|
| 決勝 | 翌5月2日に坂田さんが 初優勝 |
| 勝負 | 0.602秒差 でウォルドマンを抑える |
| ゴール後 | こらえきれず 号泣 し続けた |
坂田さんは、このヘレスを含めて1993年に2勝を挙げます。
第11戦チェコGPでも勝利を加えました。
ポールポジションは6回。シーズンを通して常に上位を走り続けました。
1993年の坂田さんは、レースで2勝を挙げましたが、年間王者ではありません。
この年のシリーズ王者は、9勝を挙げたドイツの ダーク・ラウディス でした。
坂田さんは266ポイントでランキング2位。王者ラウディスとの差は14ポイントでした。
勝利数では9勝対2勝と大きく離れています。
それでも坂田さんは表彰台を安定して重ね、僅差の2位に食い込んだのです。
タイトルまであと一歩というこの経験が、翌年への助走になりました。
| 1993年の最終結果 | 内容 |
|---|---|
| 王者 | ダーク・ラウディス (9勝・280点) |
| 坂田さん | 2勝で 266点 のランキング2位 |
| 差 | わずか 14点 |
引用元 坂田和人 – Wikipedia、若井伸之 – Wikipedia、坂田和人とは – Weblio辞書、25年前にこの世を去った悲劇の天才ライダー、フラミンゴ・若井伸之は永遠なり! – Motorz、今日5月1日は…若井伸之選手を偲んで – 二輪文化を伝える会、1993 Grand Prix motorcycle racing season – Wikipedia
第3章 1994年・初めての年間王者
1994年、坂田さんは ホンダ を離れます。
新しいパートナーは、イタリアのメーカー、アプリリア でした。
このシーズン、125ccクラスでは大きな波が起きていました。
坂田さん、上田さん、辻村猛 さん、若い 青木治親 さん。
日本人が次々に勝利を重ね、欧州勢を相手にクラスを席巻していきます。
| 日本人が席巻した年 | 内容 |
|---|---|
| 坂田さんの移籍先 | アプリリア |
| 勝利を量産 | 上田昇 や辻村猛ら |
| 台頭した若手 | 青木治親 ら |
坂田さんの最大のライバルになったのが、上田さんでした。
上田さんはこの年、Giviレーシングからアプリリアに乗っていました。
つまり坂田さんと、マシンの素性は同じです。
そのため争いは、ライダーの実力勝負という色合いを濃くしていきました。
シーズンは2人を軸に進みます。
坂田さんはレースで3勝を挙げ、ポイントを安定して積み重ねていきました。
上田さんも同じく3勝。勝利の数だけ見れば互角でした。
しかし上田さんはノーポイントに終わるレースもあり、坂田さんとの差が徐々に開いていきます。
| 上田昇との一騎打ち | 内容 |
|---|---|
| 勝利数 | 坂田さんと 上田昇 がともに3勝 |
| マシン | 両者とも アプリリア を駆る実力勝負 |
| 明暗 | 上田さんは 取りこぼし が響く |
最終盤の第13戦 アルゼンチンGP に、シーズンの帰結が訪れます。
このレースまでに、シーズン12戦のうち10戦を日本人ライダーが制していました。
クラスの主役が完全に入れ替わったことを示す数字です。
上田さんは、王者の可能性を最終戦までつなぐためにスタートします。
スタートに失敗しながらも上位を次々と追い抜き、最終ラップの最終コーナーまで優勝を争いました。
2人は完走を果たし、ポイントを確保した時点で、王者が決まりました。
最終結果、坂田さんは224ポイント、上田さんは194ポイント。
その差は30ポイントでした。
そしてこれは、125ccクラスで 日本人ライダーが初めて手にした年間王者 のタイトルでした。
| 初の年間王者 | 内容 |
|---|---|
| 戴冠の舞台 | 第13戦 アルゼンチンGP |
| 最終ポイント | 坂田 224点 /上田 194点 (30点差) |
| 意義 | 125ccクラス で日本人初の年間王者 |
頂点に立った後の坂田さんの姿には、相変わらず派手なところがありませんでした。
ある雑誌が、王者となった坂田さんにオフの過ごし方をたずねました。
坂田さんの答えは、こうでした。
「ユンボのバイトします」
世界王者の答えとして、これほど飾り気のない言葉もありません。
巨額の契約金が舞い込むような環境ではなかった、当時の125ccライダーの現実でもありました。
坂田さんは、それを取り繕うことなく、ありのまま語っただけでした。
ちなみに、坂田さんはユンボのバケットの先に筆を取り付け、半紙に文字を書くことができたといいます(Motorz)。
操縦の繊細さがうかがえる、ささやかな逸話です。
翌1995年、坂田さんはランキング2位に終わります。
この年に王者となったのは、ホンダの 青木治親 さんでした。
日本人ライダーがランキングの1位と2位を独占するという、それまでにない景色が生まれました。
坂田さんが切り開いた道は、確かに後続へとつながっていきます。
| 飾らない世界王者 | 内容 |
|---|---|
| オフの予定 | 「ユンボのバイト」 と回答 |
| 隠れた腕前 | ユンボで 書道 もこなした(Motorz) |
| 翌1995年 | 日本人が 1位と2位 を独占 |
引用元 坂田和人 – Wikipedia、上田昇 – Wikipedia、坂田和人とは – Weblio辞書、MotoGPプラチナセレクション/見どころ|坂田和人 オフィシャルブログ、日本GPの興奮。日本人ライダーが巻き起こした熱狂 – Honda、苦労とレースへのストイックさで125cc世界チャンピオンを獲得した坂田和人を知っていますか? – Motorz、1994 Grand Prix motorcycle racing season – Wikipedia
第4章 ぶれない男──こだわりと信頼
坂田さんのレースには、一貫した哲学がありました。
危険なレースで戦う以上、後悔はしたくない。自分で納得したやり方で勝ちたい。
その姿勢が、選ぶマシンにも表れていました。
1994年から アプリリア に乗った理由が、それを物語ります。
当時、性能で勝っていたのはむしろ日本製のマシンでした。
耐久性も、部品の供給の安定性も、日本車のほうが上だったのです。
それでも坂田さんは、あえてイタリアのアプリリアを選びました。
「日本メーカーのチームにいるより、縛られなくていい」 という考えからでした。
多少無理な要求をしても、結果さえ残せば評価される。そう判断したのです。
| あえてのアプリリア | 内容 |
|---|---|
| 性能 | 日本車 のほうが上だった |
| 選択 | それでも アプリリア を選ぶ |
| 理由 | 「縛られなくていい」 から |
こだわりを示す出来事は、ホンダ時代の1993年にもありました。
坂田さんは、シーズンの途中でタイヤメーカーの変更を求めます。
自分の乗り方に合わない、という理由でした。
プロのレースでは、まずあり得ない要求です。坂田さん自身もそれは分かっていました。
ところがチームは、その求めを受け入れます。
ただし坂田さんはそのタイヤメーカーの契約ライダーではありません。
供給されたのは、他のライダーが使わない余りのタイヤでした。
それでも坂田さんは、自分が信じたタイヤでポールポジションから2位に入ります。
次のレースでは、ポールポジションから優勝しました。
| 常識破りのタイヤ変更 | 内容 |
|---|---|
| 要求 | シーズン途中に タイヤメーカー を変更 |
| 供給 | 他者の 余り のタイヤのみ |
| 結果 | ポールから2位 、次戦は 優勝 |
信頼を大切にする姿勢は、人にも向かいました。
坂田さんはイタリアのチームと契約しながら、メカニックは弟をはじめとする日本人で固めました。
契約はチーム任せにせず、坂田さんとメカニックが直接結びました。
チームからの支払いが滞ったときには、弟の分も含めて、自分のポケットマネーから遅れずに支払ったといいます。
装備についても、坂田さんは妥協しませんでした。
ヘルメットは アライ 、レザースーツは ステージ 。
どれだけスポンサーの申し出があっても、信頼するメーカーのものしか身につけませんでした。
ただ一度だけ、スポンサーの話を受けて別メーカーのレザースーツを着た年があります。
その年、坂田さんは 鎖骨を折りました 。
「やっぱり、ぶれてはダメだと改めて思いました」 。坂田さんはそう振り返っています。
| 信頼と道具へのこだわり | 内容 |
|---|---|
| メカニック | 弟ら 日本人 で固める |
| 装備 | アライ と ステージ のみ |
| 教訓 | 別メーカーを着た年に 鎖骨を骨折 |
坂田さんは、海外でも親しまれました。
スペインでは 「カズート」 、イタリアでは 「サカティーノ」 と呼ばれました。
なお1996年にデビューした バレンティーノ・ロッシ も、坂田さんら日本人ライダーに走り方をたずねに来たことがあったといいます(Motorz)。
| 海外での人気 | 内容 |
|---|---|
| スペイン | 「カズート」 |
| イタリア | 「サカティーノ」 |
| エピソード | 若き日の ロッシ も助言を求めた(Motorz) |
引用元 ’90年代、なぜ日本人は強かったのか。自分であり続けるための闘い ~坂田和人氏~ – ahead/CARPRIME、苦労とレースへのストイックさで125cc世界チャンピオンを獲得した坂田和人を知っていますか? – Motorz、坂田和人(さかたかずと)日本人世界チャンピオン!軽量級のスペシャリスト! – BIKE and LIFE.com、坂田和人 – Wikipedia
第5章 1998年・審議をまたいだ2度目の王者
1995年のランキング2位のあと、坂田さんは少し勝ちから遠ざかります。
1996年は8位、1997年は4位でした。
転機を語るうえで、1人の若手の名前が欠かせません。
1996年に125ccクラスへデビューした バレンティーノ・ロッシ です。
ロッシは2年目の1997年に、早くも125ccクラスの年間王者になりました。
そしてその翌年、坂田さんが2度目の頂点へ駆け上がります。
| ロッシの翌年に2度目へ | 内容 |
|---|---|
| 頭角を現す | 1996年デビューの ロッシ |
| ロッシの戴冠 | 1997年 に125cc年間王者 |
| 坂田さんの再戴冠 | 翌 1998年 |
1998年、坂田さんはアプリリアでレース4勝を挙げ、ポイントの先頭に立ちました。
ただし、その環境は決して恵まれてはいませんでした。
劣化した部品を組み込んで予選に臨み、マシンが壊れてしまう。
そのため他のチームに部品の融通を頼みに行く。そんな場面もあったといいます。
勝てる条件がそろっていたとは言いがたい中での、4勝でした。
シーズン終盤、思わぬ事態が起こります。
坂田さんが使っていた燃料が、規定に違反する疑いがあるとされたのです。
これによって、あるレースの4位分にあたる 13ポイント が、いったん取り消されました。
アプリリアはこの裁定を不服として、提訴に踏み切ります。
| 恵まれない環境での4勝 | 内容 |
|---|---|
| 戦績 | アプリリアで レース4勝 |
| 苦境 | 劣化した部品で マシンが壊れる |
| 問題 | 燃料規定の疑いで 13点 が一度取り消し |
最終戦では、ライバルの 眞子智実 さんが(暫定で)優勝しました。
坂田さんは5位でした。
取り消された13ポイントが戻らなければ、眞子さんが王者になる計算でした。
しかし提訴が審議中のため、王者は決まらないまま持ち越されます。
決着まで、およそ1か月を要しました。
審議の結果、FIMは坂田さん側の主張を認めます。
取り消されていた13ポイントが、坂田さんに戻されました。
最終的なポイントは、坂田さん229点、眞子さん217点。
その差は12ポイントでした。
坂田さんは、レースの表彰台ではなく、審議を経た書面の通達によって、2度目の年間王者を確定させたのです。
| 審議をまたいだ戴冠 | 内容 |
|---|---|
| 最終戦 | 眞子智実 が優勝、坂田さんは5位 |
| 審議 | 約 1か月 でFIMが坂田さんを支持 |
| 最終ポイント | 坂田 229点 /眞子 217点 (12点差) |
坂田さんは後にこう語っています。
絶対に大丈夫なはずだったが、結果が出るまでは落ち着かなかった、と。
恵まれない環境の中でつかんだ、非凡な才能を証明する2度目のタイトルでした。
引用元 坂田和人 – Wikipedia、坂田和人とは – Weblio辞書、眞子智実 – Wikipedia、1998 Grand Prix motorcycle racing season – Wikipedia
第6章 頂点を退いて、伝える側へ
坂田さんは、1999年 を最後に世界選手権の舞台を離れました。
2000年も参戦を目指して複数のチームと交渉しましたが、条件が折り合いませんでした。
こうして坂田さんは、世界選手権から退きます。
ただし、本人は 「ライダーを引退するわけではない」 と強調していました。
その言葉どおり、坂田さんはその後もハンドルを握り続けます。
2005年には、全日本選手権の筑波大会にスポット参戦しました。
しかも改造を加えないノーマルの RS125 で、予選最速のポールポジションを獲得します。
第一線を退いてなお、その速さは健在でした。
| 現役を退いても走り続ける | 内容 |
|---|---|
| WGPを離れる | 1999年 を最後に |
| 本人の言葉 | 「引退ではない」 と強調 |
| 2005年 | ノーマル車 でポール獲得 |
坂田さんの活動は、自分が走ることだけにとどまりませんでした。
MotoGP中継 の解説者として、その経験を視聴者に伝えました。
レーシングスクールの講師や、MFJロードレースアカデミーの校長として、後進の育成にも力を注ぎます。
2011年にはチームの監督として 藤井謙汰 さんを指導し、藤井さんはその年のJ-GP3クラス王者になりました。
そして2018年7月、坂田さんは 51歳 で全日本J-GP3にスポット参戦します。
13年ぶりの実戦復帰でした。
2つのレースで、10位と5位という結果を残しています。
| 伝える側へ | 内容 |
|---|---|
| 解説者 | MotoGP中継 を担当 |
| 育成 | アカデミー校長 として後進を指導 |
| 2018年 | 51歳 で13年ぶりの実戦復帰 |
坂田さんがかつて走り方を教えた若手の中には、バレンティーノ・ロッシがいました。
そのロッシは後に最高峰クラスへ進み、何度も世界王者に輝きます。
二輪レースの歴史を代表するスターとなりました。
坂田さんは、そうした才能が育つ時代の入り口に立っていた一人でした。
最後に、坂田さんの足跡をあらためて整理します。
坂田さんは、日本人として 3人目 の世界選手権年間王者になりました。
1977年に350ccクラスを制した 片山敬済 さん、1993年に250ccクラスを制した 原田哲也 さんに続く快挙でした。
そして125ccクラスでは、坂田さんが 日本人初の王者 でした。
レースでの勝利は通算 11回 。表彰台は 41回 。ポールポジションは 29回 を数えます。
年間王者のタイトルは、1994年と1998年の2回です。
メーカーの手厚い支援も、欧州での基盤もない中で、坂田さんは自分のやり方を最後まで貫きました。
その姿勢こそが、坂田和人さんを2度の世界王者へ導いた力でした。
| 坂田和人の足跡 | 内容 |
|---|---|
| 日本人として | 3人目 の世界選手権王者 |
| 125ccクラス | 日本人 初 の王者 |
| 通算成績 | レース勝利 11回 /年間王者 2回 |
引用元 坂田和人 – Wikipedia、坂田和人とは – Weblio辞書、全日本ロードレース 復活 51歳のプライド ~坂田和人 13年ぶりの全日本復帰~ – webオートバイ、苦労とレースへのストイックさで125cc世界チャンピオンを獲得した坂田和人を知っていますか? – Motorz


