2009年、ロードレース世界選手権250ccクラスで、ひとりの日本人ライダーが頂点に立ちました。
その名は 青山博一(あおやま ひろし) 。※「ヒロカズ」ではなく「ヒロシ」
彼が駆ったのは、ライバルより2年も古い旧型マシンでした。
「レースはマシンじゃなくてウデだった」——そう言い切れる戴冠の物語を、5つの章でたどります。
第1章 最終戦バレンシアGP
2009年11月8日、スペインのバレンシア。
サーキット・リカルド・トルモ で、ロードレース世界選手権250ccクラスのシーズン最終戦がおこなわれました。
全16戦の、最後の1戦です。
この日、青山博一 が2009年250ccクラスの年間王者になりました。
青山はこの最終戦に、2位の マルコ・シモンチェリ に21ポイントの差をつけて臨みました。
年間タイトルは、シーズンを通して積み上げたポイントの合計で決まります。
青山は、一定の順位でゴールすればタイトルを手にできる状況にありました。
追う立場のシモンチェリは、優勝が絶対条件でした。
前年の王者であるシモンチェリにとって、逆転には自身の優勝と、青山の大きな失速の両方が必要でした。
| タイトル決定の構図 | 内容 |
|---|---|
| 決定方式 | 年間王者はポイント合計で決まる |
| 青山の状況 | 21ポイントのリードで最終戦へ |
| シモンチェリの条件 | 優勝が絶対条件 |
| 青山に必要なこと | 順位を守ればよい立場 |
レースは波乱含みの展開になりました。
10周目、青山は先頭集団の3番手を走っていました。
ところが1コーナーのブレーキングを誤ります。
マシンは止まりきれず、高速で グラベル(砂利のゾーン) へ飛び出しました。
スコット・レーシングチームのスタッフは、息をのんで見守ります。
ここで転倒すれば、シーズンを通して築いてきたものが一瞬で消えかねません。
青山はマシンを倒さずにこらえ、11位 でコースへ復帰しました。
この11位には意味がありました。
仮にシモンチェリが優勝しても、青山が11位でゴールすれば、年間タイトルは青山のものになる計算だったからです。
最悪の場面で、青山はぎりぎり踏みとどまりました。
| 10周目のアクシデント | 詳細 |
|---|---|
| 状況 | 先頭集団の3番手でブレーキングを誤る |
| 危機 | 高速でグラベルへ飛び出す |
| 結果 | 転倒を回避し11位で復帰 |
| 意味 | この11位でもタイトル圏内だった |
決着は終盤に訪れます。
21周目、トップを快走していた シモンチェリが、自ら転倒してリタイア しました。
優勝が条件だったシモンチェリの脱落で、青山の年間タイトルは確定的になります。
青山はその後ポジションを7位まで戻し、全27周を走り切りました。
フィニッシュの瞬間、シモンチェリに 22ポイント差 をつけた年間王者が決まりました。
レースを制したのはスペインの エクトル・バルベラ でした。
この戴冠には、いくつもの意味が重なっていました。
日本人の250cc年間王者は、1993年の 原田哲也 、2001年の 加藤大治郎 に続いて、青山が3人目です。
加藤がこのクラスを制してから、実に 8年ぶり の快挙でした。
さらに、250ccクラスはこの2009年が最後のシーズンでした。
翌2010年から、中量級は Moto2クラス へと姿を変えます。
青山博一 は、250cc最後の年間王者として、その名を歴史に刻みました。
| 歴史的な位置づけ | 内容 |
|---|---|
| 日本人王者として | 250cc年間王者は青山が3人目 |
| 期間 | 加藤大治郎以来8年ぶり |
| クラス史上の意味 | 250ccクラス最後の年間王者 |
| 翌年から | 2010年からMoto2へ移行 |
第2章 青山博一という選手
青山博一 は、1981年10月25日に 千葉県市原市 で生まれました。
弟は、のちにオートレースへ進む 青山周平 です。
5歳でポケバイに乗り始め、15歳で 桶川塾 に入りました。
バイクとともに育った少年でした。
レースの本格的なキャリアは、全日本ロードレース選手権から始まります。
1999年にGP125クラスへデビューし、2000年からGP250クラスへ移りました。
ここで青山は、すぐに上位の常連になります。
2000年は年間ランキング2位、2002年も2位。
あと一歩のところで、タイトルには届きませんでした。
| 青山博一の基本データ | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1981年10月25日 |
| 出身・家族 | 千葉県市原市、弟は青山周平 |
| 原点 | 5歳でポケバイ、15歳で桶川塾 |
| 国内初期実績 | 全日本GP250で2000年と2002年に年間2位 |
転機は2003年に訪れます。
この年、青山は全日本ロードレース選手権GP250クラスで、ついに年間王者になりました。
これは国内シリーズのタイトルです。
1年を通して安定した成績を積み上げての戴冠でした。
この実績が、世界への扉を開きます。
2004年、青山は ホンダ・レーシングスカラシップ の第1期生に選ばれました。
これは、ホンダが日本人の若手ライダーを育てるための制度です。
青山はこの制度を使い、テレフォニカ・モビスター・ホンダ から、ロードレース世界選手権250ccクラスへフル参戦を始めました。
チームを率いたのは名将 アルベルト・プーチ で、チームメイトは ダニ・ペドロサ でした。
世界選手権という、新しい舞台への一歩でした。
2年目の2005年、青山は早くも結果を出します。
地元の ツインリンクもてぎ でおこなわれた日本GPで、250ccクラスのレースに優勝しました。
これが、世界選手権における青山のレース初優勝です。
このシーズンの年間総合順位は4位でした。
| 世界選手権への歩み | 内容 |
|---|---|
| 2003年 | 全日本GP250で年間王者 |
| 2004年 | スカラシップ第1期生として世界選手権へ |
| 2005年 | もてぎで世界選手権250ccレース初優勝 |
| 2005年総合 | 年間4位 |
ここで言葉を整理しておきます。
2003年の 「年間王者」 は全日本選手権、つまり国内シリーズのタイトルです。
2005年もてぎの 「初優勝」 は、世界選手権における1つのレースでの勝利です。
同じ250ccでも、舞台もタイトルの種類も異なります。
2006年からの3年間、青山は KTM のワークスチームに所属しました。
マシンはオーストリア製のKTMです。
世界選手権250ccで戦い続け、2008年は年間総合7位、このシーズンには2位を2回記録しました。
レースごとに勝ち負けはありましたが、上位で戦える実力を着実に示していきます。
そして2009年、状況が大きく動きます。
KTMが250ccクラスから撤退を決めました。
青山は所属先を失います。
そこへ手を差し伸べたのが、ホンダ系の スコット・レーシングチーム・250cc でした。
最高峰クラスへ昇格した 高橋裕紀 の後任という形で、青山に声がかかります。
青山にとっては、4年ぶりのホンダ復帰でした。
スペアマシンもない 1台体制 という、決して恵まれない条件でのシート確保でした。
| KTM時代と2009年への移籍 | 内容 |
|---|---|
| 2006〜2008年 | KTMワークスに所属 |
| 2008年成績 | 年間総合7位、2位2回 |
| 移籍の経緯 | KTMの250cc撤退で所属先を失う |
| 復帰先 | スコット・レーシングチームへ、4年ぶりのホンダ復帰 |
青山は、セパン・インターナショナル・サーキット を得意にしていました。
250cc時代に、ここで4度のポールポジションを獲得しています。
年間王者になった2009年のセパンでは、コースレコードを更新したうえで、ポールポジションと決勝の勝利を両方手にしました。
世界選手権250cc時代の青山は、通算 9勝、表彰台27回 を数えます。
決して一発屋ではない、長く上位で戦い続けたライダーでした。
第3章 2年間、進化が止まっていたマシン
青山が2009年に駆ったのは、ホンダの RS250RW でした。
市販レーサーをベースにした、ワークス仕様のマシンです。
ホンダがこのクラスのために用意した1台でした。
問題は、その中身が新しくなかったことです。
ホンダは、2ストローク250ccマシンの開発を 2007年で終えていました 。
理由は、このクラスそのものに先がなかったからです。
250ccクラスは数年のうちに廃止される見通しで、ホンダは2ストロークへの投資を打ち切りました。
その結果、2009年に青山が乗ったマシンは、2007年モデルのまま でした。
中身が2年間、進化していないマシンでした。
| 青山のマシン | 内容 |
|---|---|
| 車両 | ホンダRS250RW |
| 素性 | 市販レーサーをベースにしたワークス仕様 |
| 開発状況 | ホンダは2007年で2ストローク開発を終了 |
| 2009年仕様 | 2年前のモデルのまま |
一方、ライバルたちのマシンは違いました。
当時、250ccクラスを支配していたのは アプリリア です。
最終進化版の RSA250 は、2007年に投入されました。
吸気系を新しくし、スイングアームを延ばして、加速と トラクション(タイヤが路面をとらえる力) を高めていました。
2009年型では、最高峰のMotoGPマシンと同じ電子制御ユニットまで積んでいました。
アプリリアは、毎年のように手を入れ続けていました。
ここで、2台の置かれた状況を比べてみます。
ホンダは2007年で立ち止まりました。
アプリリアはその後も前へ進み続けました。
同じ2ストローク250ccでも、片方は2年前のまま、もう片方は最新です。
この差は、決して小さくありませんでした。
| 比較項目 | ホンダ RS250RW | アプリリア RSA250 |
|---|---|---|
| 設計年 | 2007年モデルのまま | 2007年投入後も改良継続 |
| 改良の有無 | 2年間ストップ | 毎年のように刷新 |
| 電子制御 | 旧来仕様 | 2009年型はMotoGP用ECU搭載 |
| 立場 | 旧型で挑む側 | クラスの支配者 |
ライバルの顔ぶれも、アプリリア勢で固まっていました。
前年の王者 マルコ・シモンチェリ が駆ったのは、ジレラ です。
ただし、これはピアッジオ・グループの中でアプリリアを別ブランドに仕立てたもので、中身は事実上のファクトリー・アプリリアでした。
エクトル・バルベラ や アルバロ・バウティスタ といった優勝候補も、アプリリア系のマシンに乗っていました。
青山のホンダは、最新のアプリリア勢に囲まれた1台でした。
このマシンには、もう一つの背景がありました。
コストの高騰です。
ファクトリーの アプリリアRSA250 は、チームがリースで借りて使うものでした。
シーズンが終われば、マシンはアプリリアへ返されます。
この特別なマシンを1年間借りる費用は、非常に高額になっていました。
少数のメーカーが高価なマシンを供給する構図は、クラスの存続を危うくしていました。
これが、のちの250ccクラス廃止と Moto2への移行 につながっていきます。
| 不利の構図 | 内容 |
|---|---|
| ライバル勢 | アプリリア系で固まる |
| シモンチェリのジレラ | 実質ファクトリー・アプリリア |
| 供給形態 | ファクトリー機は高額なリース |
| 将来への影響 | コスト高騰がクラス廃止の伏線に |
前年の不振もあり、2009年の青山に大きな期待を寄せる声は多くありませんでした。
青山自身も、楽観はしていませんでした。
ホンダのワークス機が250ccで最後に年間王者を出したのは、2005年の ダニ・ペドロサ です。
それ以降、タイトルはアプリリア勢が独占していました。
2年前のマシンで、最新のアプリリアに挑む。
それが、青山が置かれた現実でした。
だからこそ、この年の戴冠は価値を持ちます。
第4章 安定感が押し上げた年間ランキング
2009年シーズンが始まる前、優勝候補と目されていたのは3人でした。
前年の王者 マルコ・シモンチェリ 、エクトル・バルベラ 、そして アルバロ・バウティスタ です。
3人に共通していたのは、アプリリア系のマシンに乗っていたことでした。
最新の戦闘力を持つマシンです。
2年前のホンダに乗る青山の名前は、その中になかなか挙がりませんでした。
ところが、シーズンが始まると流れが変わります。
本命の3人が、序盤で安定した成績を残せませんでした。
シモンチェリにいたっては、開幕戦を負傷で欠場します。
トップ候補が足踏みするなか、予想を裏切る速さを見せたのが青山でした。
気づけば、青山がシーズンのペースを作る側に立っていました。
| 前評判と現実 | 内容 |
|---|---|
| 優勝候補 | シモンチェリ、バルベラ、バウティスタ |
| 共通点 | 3人ともアプリリア系のマシン |
| 開幕後 | 本命勢が序盤に失速 |
| 想定外 | 青山が予想外のペースセッターに |
青山の強みは、勝つときに勝ち、勝てないときも取りこぼさないことでした。
2009年シーズン、青山は 4つのレース で優勝します。
スペインのヘレス、オランダのアッセン、イギリスのドニントンパーク、そしてマレーシアのセパンです。
さらに、2位でフィニッシュしたレースが3回ありました。
表彰台の常連として、シーズンを通して上位で戦い続けました。
| 2009年の4勝 | 開催地 |
|---|---|
| 第3戦スペインGP | ヘレス |
| 第7戦オランダGP | アッセン |
| 第10戦イギリスGP | ドニントンパーク |
| 第16戦マレーシアGP | セパン |
象徴的だったのが、7月の イギリスGP です。
ドニントンパーク は、雨に見舞われました。
コースは濡れ、レースはウェット宣言のもとでおこなわれます。
ほぼ全車が、雨用のタイヤを選びました。
青山は1周目の終わりにはトップへ立ちます。
そこから後続を引き離し、最後まで先頭を譲りませんでした。
2位のバウティスタに 5.7秒の差 をつけてのスタート・トゥ・フィニッシュです。
この勝利で、青山は年間ランキングのリードを15ポイントに広げました。
シーズン終盤の セパン も見逃せません。
青山が得意とするサーキットです。
ここで青山は、タイトルを争う シモンチェリとの直接対決 を制しました。
真っ向からの勝負を、自分のマシンで勝ち切りました。
この1勝が、最終戦バレンシアへ向けた 21ポイントのリード につながります。
| 安定感という武器 | 内容 |
|---|---|
| 勝利数 | 4勝に加えて2位が3回 |
| 取りこぼし | 残りのレースもポイントを獲得 |
| 直接対決 | セパンでシモンチェリに勝利 |
| 最終戦前 | 21ポイントのリード |
青山の2009年を振り返ると、派手な速さで圧倒したシーズンではありませんでした。
むしろ、地道にポイントを積み重ねる戦い方でした。
勝てるレースは勝つ。
勝てないレースでも、確実に上位でゴールする。
この 安定感 が、年間ランキングを少しずつ押し上げていきました。
マシンの不利を、走りの堅実さで補ったシーズンでした。
第5章 250ccクラスの終わりと、その先
青山博一 が手にした2009年の年間王者には、特別な意味がありました。
それは、250ccクラスの最後の年間王者 だったということです。
このクラスは、2009年を最後に姿を消しました。
250ccクラスは、長くグランプリの中量級を担ってきました。
排気量250ccまでの2ストローク・エンジンで戦うカテゴリーです。
ホンダ、アプリリア、ヤマハといったメーカーが、それぞれ独自のマシンを持ち寄り、技術を競い合ってきました。
原田哲也 も、加藤大治郎 も、この2ストローク250ccで世界の頂点に立ちました。
| 250ccクラスとは | 内容 |
|---|---|
| 役割 | グランプリの中量級を長く担う |
| 規格 | 2ストローク250ccのマシンで戦う |
| 特徴 | メーカーが独自マシンで競い合った |
| 歴代日本人王者 | 原田哲也、加藤大治郎もこのクラスの王者 |
しかし、このクラスは行き詰まっていました。
最大の理由はコストです。
第3章で触れたとおり、ファクトリーのアプリリアを借りるだけで、莫大な費用がかかるようになっていました。
高価なマシンを少数のメーカーが供給する構図は、小さなチームには重い負担でした。
クラスの将来を考えたとき、この仕組みは続けられないと判断されます。
そこで導入されたのが、2010年から始まった Moto2クラス です。
ここで、中量級は大きく変わりました。
名前が変わっただけではありません。
中身が、根本から入れ替わりました。
まず、エンジンが2ストロークから 4ストローク になりました。
排気量も250ccから 600cc へと変わります。
さらに大きな変更がありました。
全チームが、同じエンジンを積むことになりました。
供給したのはホンダで、市販車 CBR600RR をベースにした600ccエンジンでした。
エンジンを共通にすることで、コストを抑え、マシンよりライダーの腕で差がつくレースをめざしました。
| 250ccからMoto2へ | 内容 |
|---|---|
| 開始年 | 2010年からMoto2クラスがスタート |
| エンジン | 4ストローク600ccへ |
| 供給 | 全チームがホンダ製の共通エンジンを使用 |
| 狙い | コスト削減と接近戦 |
ここで区別をはっきりさせておきます。
Moto2で共通だったのは、エンジンだけ です。
車体は各メーカーが独自に作りました。
エンジンは横並び、フレームは各社の勝負どころ、という仕組みでした。
このホンダ製エンジンの時代は2018年まで続きます。
2019年からは、トライアンフ製の765ccエンジン へと切り替わりました。
こうして、2ストローク250ccのマシンは、グランプリの舞台から姿を消しました。
メーカーが独自のマシンで覇を競った時代が、ひとつ終わりました。
青山博一 は、その最後の年間王者です。
翌2010年のMoto2初代王者は、トニ・エリアス でした。
青山の名は、2ストローク250cc時代の最後を締めくくる王者として、記録に残っています。
| 青山が刻んだ記録 | 内容 |
|---|---|
| 称号 | 250cc最後の年間王者 |
| 意味 | メーカーが独自マシンで競った時代の締めくくり |
| 後継王者 | Moto2初代王者はトニ・エリアス |
| クラスの終焉 | 2ストローク250ccはここで終了 |
青山自身のキャリアも、ここから次の舞台へ進みます。
2010年、青山は念願の最高峰 MotoGPクラス へ昇格しました。
2012年にはスーパーバイク世界選手権へ転じ、2013年からは再びMotoGPで戦います。
現役を退いた後は、HRCのテストライダー を務め、イデミツ・ホンダ・チームアジア の監督として若手の育成にあたっています。
2年前のマシンで世界の頂点に立った男は、いまは育てる側に立っています。

