クレア・ウィリアムズが看取ったF1名門ウィリアムズ王朝──父フランクから娘へ43年の物語

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第1章 ウィリアムズというチームの「ずっといる」という凄さ

F1というスポーツは、本当に冷たい場所だと思います。

去年まであった名門が、ある日ふっと消えている。1990年代に強かった ジョーダン も、2000年代に存在感のあった ロータス も、いつの間にか別のチームに飲み込まれたり、消滅したりしています。1980年代のチャンピオン、 ブラバム も今はありません。 ティレル もありません。

そんななかで、いまもグリッドに名前を残し続けているチームがいくつかあります。 フェラーリマクラーレン 、そして ウィリアムズ

フェラーリは1950年のF1世界選手権第1回から一度も離脱したことがない、文字通りの唯一無二のチームです。マクラーレンも1966年から参戦を続けています。そしてウィリアムズは1977年のスペインGPでF1にデビューして以来、48年間、一度もF1を離脱したことがありません

これがどれくらい凄いことなのか、改めて考えてみました。

48年というのは、生まれた赤ん坊が中年になるまでの時間です。そのあいだに、F1のレギュレーションは何度も大改革を経て、エンジンは3リッターV12からターボに、自然吸気V10に、V8に、そして現在の1.6リッターV6ターボハイブリッドへと変わりました。

空力もタイヤもまったく別物になっています。世界もF1も変わったのに、ウィリアムズだけはそこにいた。

しかも、これは「成績を残し続けた」という話ではありません。ウィリアムズは2018年、2019年、2020年と3年連続でコンストラクターズ最下位を経験しました。

普通の企業なら、撤退してもおかしくない状況です。でも、撤退しなかった。撤退する前に売却を選びました。

2020年8月、ウィリアムズ家はDorilton Capitalにチームを1億7,950万ドル(約278億円)で売却しました。それでもチーム名は残りました。Groveの工場も残った。FW46、FW47というマシン番号も残った。

項目内容
F1デビュー1977年スペインGP
連続参戦年数48年(マクラーレンに次ぐ長期参戦)
最下位経験2018〜2020年の3年連続
売却年2020年8月(Dorilton Capital)
売却額1億7,950万ドル(約278億円)

このチームを率いてきたのが、創設者の フランク・ウィリアムズ です。1942年生まれ、2021年に79歳で亡くなりました。

1977年にエンジニアの パトリック・ヘッド と組んで、オックスフォードシャーの古いカーペット倉庫でチームを立ち上げました。

1986年3月、フランクはフランス南部のポール・リカール・サーキットからニース空港へ向かう途中、運転していたレンタカーのフォード・シエラのハンドル操作を誤り、横転事故で頸髄を損傷しました。

四肢麻痺。それでも事故から9カ月足らずでチームに戻り、以後35年間、車椅子から世界選手権を9度コンストラクターズ・チャンピオンに、7度ドライバーズ・チャンピオンに導いた人物です。

The Raceは、ウィリアムズ家のチーム経営について「2020年に売却するまで、43年間ウィリアムズ家の支配下にあった」と書いていました。F1パドックで最後の「家族経営チーム」だった、ということです。

クルマ好きの感覚としても、これは凄い話だと思います。フェラーリには国家的なバックアップがあり、マクラーレンには企業としての厚みがある。でもウィリアムズは、文字通り一家族で、しかも車椅子の創設者が引っ張ってきた。それが48年続いた。

そして物語の主役は、その娘── クレア・ウィリアムズ に引き継がれます。

次の章では、ウィリアムズが「ただ続いた」のではなく、F1史上2位の戴冠回数を誇る黄金期があったことを書いていきます。マンセル、プロスト、ヒル、ビルヌーヴ。あの時代を知っているか知らないかで、いまのウィリアムズの見え方は全然違ってくるはずです。

第2章 9つのコンストラクターズ、7人のチャンピオン

ウィリアムズの最盛期がどれくらい凄かったのか。これは正直、いま20代でF1を見始めた人にはピンとこない話なのかもしれません。

数字で言うと、ウィリアムズは1980年から1997年までの間に、コンストラクターズ・タイトルを9回、ドライバーズ・タイトルを7回獲得しています。

コンストラクターズ9回というのは、フェラーリに次ぐ歴代2位です。マクラーレンより多い。メルセデスのハイブリッド時代より多い。レッドブルより多い。

Formula One History の集計によれば、F1で100勝以上を達成したのはフェラーリ、マクラーレン、メルセデス、レッドブル、そしてウィリアムズの5チームだけだそうです。ウィリアムズの100勝目は1997年イギリスGPで、ジャック・ヴィルヌーヴが達成しました。

歴代ドライバーズ・チャンピオンの顔ぶれも、いま読み返すとちょっとめまいがします。

チャンピオン
1980年アラン・ジョーンズ
1982年ケケ・ロズベルグ
1987年ネルソン・ピケ
1992年ナイジェル・マンセル
1993年アラン・プロスト
1996年デイモン・ヒル
1997年ジャック・ヴィルヌーヴ

7人。ピケ、マンセル、プロストの3人は他チームでもチャンピオンを獲っている偉大なドライバーですし、ロズベルグは現メルセデスのドライバー、ニコ・ロズベルグの父親、ヒルは1962年のグラハム・ヒルの息子。ヴィルヌーヴは1978年のジル・ヴィルヌーヴの息子。

F1界の名家の血が、ウィリアムズで一度に開花した時代 でした。

最盛期を支えたのは、エンジン・パートナーの選択でした。

1980年代後半、ウィリアムズはホンダと組みました。1986年と1987年、Williams-Honda の組み合わせで2年連続のコンストラクターズ・タイトル。マンセルとピケが直接対決した1986年シーズンは、F1史でもとくに激しい戦いだったと語り継がれています。

そのホンダが1988年にマクラーレンへ離れていったあと、ウィリアムズはルノーと組みます。これがハマる。

Atlassian Williams Racing のチーム公式記事によれば、ルノーの3.5リッターV10エンジンと、1991年に復帰したナイジェル・マンセル、そしてエイドリアン・ニューウェイの加入が転機になった、ということです。

そして1992年。マンセルがFW14Bでシーズン開幕5連勝を記録し、ドライバーズ・タイトルを獲得しました。FW14Bはアクティブサスペンションを採用した革新的なマシンでした。

アクティブサスペンションは、後にレギュレーションで禁止される運命のテクノロジーですが、当時のウィリアムズはどのチームよりも先を走っていました

クルマ好きの感覚としても、あの頃のウィリアムズの青と黄色(キャメル)、それから後の青と白(ロスマンズ)のカラーリングは、本当に強さの象徴でした。

ストレートで信じられないくらい速い。コーナーでも安定している。エンジン音が他チームとは違う。

ただし、最盛期にも影はありました。1994年5月1日、イモラのサンマリノGPで、アイルトン・セナがウィリアムズFW16を駆って事故死しました。3度の世界チャンピオン、34歳。

前日にはローランド・ラッツェンバーガーが予選で命を落としており、F1史上最も暗い週末となりました。

イタリアの検察はステアリングコラムの破断疑惑でフランク・ウィリアムズ、パトリック・ヘッド、エイドリアン・ニューウェイの3人を過失致死罪で起訴しました。最終的に3人とも無罪となりますが、チームと家族にとって、永遠に消えない傷 になったはずです。

それでもウィリアムズは止まりませんでした。1996年にデイモン・ヒル、1997年にジャック・ヴィルヌーヴがチャンピオンに。そして1997年シーズン終了でルノーがF1から撤退します。

黄金期の主要数字内容
コンストラクターズ獲得9回(フェラーリに次ぐ歴代2位)
ドライバーズ獲得7回
通算勝利100勝以上(F1史上5チームのみ)
100勝目達成者1997年イギリスGP、J.ヴィルヌーヴ
最盛期の期間1980年〜1997年(17年間)

ここがひとつの分水嶺だった、と私は思っています。

ルノーがいなくなった後、ウィリアムズはBMWと組みました。それはそれで悪くなかった。レースには勝った。でも、タイトルは戻ってこなかった のです。

1997年のヴィルヌーヴ以降、ウィリアムズのドライバーはチャンピオンを獲得していません。28年経った2026年のいまも、です。

ウィリアムズはこのあと、2000年代、2010年代と長い坂を下っていきます。最盛期を知るファンほど、この下り坂を見るのが辛かった。次の章では、 「下り坂はゆっくり、でも確実だった」 という25年間の話を書いていきます。

第3章 ゆっくり、でも確実に下る坂

ウィリアムズの2000年代以降をどう書くか、けっこう迷いました。

凋落の物語、と言ってしまえば一言で済む。でも実際の坂道は、それほど急ではなかったように思います。むしろ、ゆっくり、ゆっくり下っていって、気づいたときには取り返しがつかない位置にいた、というほうが近い。

転換点は1997年シーズン終了。ルノーがF1から撤退します。ウィリアムズの5回のコンストラクターズ・タイトルを支えてきたエンジンが消えました。

しかも同じタイミングで、伝説的な空力デザイナー、エイドリアン・ニューウェイがマクラーレンへ移籍しています。BMWブログの記事によれば、エンジンとデザイナーを同時に失ったことが、後の長期低迷の遠因になった、ということです。

ここからウィリアムズはBMWと組みます。6年契約、2000年から2005年まで

これが、けっこう惜しい時代でした。The Race の記事を読み返してみると、2003年のFW25は一時期F1で最速のマシンだったそうです。

フアン・パブロ・モントーヤがチャンピオン争いに加わり、最終ラウンド近くまでタイトル戦線にいました。ただ、ブリヂストンとフェラーリがミシュランのフロントタイヤを違法と訴え、急遽タイヤ変更を強いられて勢いを失いました。

BMW時代(2000-2005年)内容
契約期間6年
最速マシン2003年のFW25
主要ドライバーR.シューマッハ、J.P.モントーヤ
通算勝利10勝
タイトル0回(ドライバーズ・コンストラクターズとも)

ラルフ・シューマッハとフアン・パブロ・モントーヤ。ふたりとも一流のドライバーで、レースには勝てた。でも、ドライバーズとコンストラクターズのタイトルには、結局一度も届きませんでした。これがBMWの不満につながります。

2005年、BMWはウィリアムズを買収したいと申し入れますが、フランクは売却を拒否します。BMWは仕方なくザウバーを買収して自前のチームを立ち上げる方向へ。ウィリアムズはコスワースのカスタマー・エンジンに戻ることになりました。

2006年、ウィリアムズはコンストラクターズ8位で、デビュー以来最悪の成績を記録します。

皮肉なことに、この年のドライバーはマーク・ウェバーと、ケケ・ロズベルグの息子ニコ・ロズベルグ。ニコは2016年にメルセデスでチャンピオンになりますが、それはウィリアムズを離れてから10年後の話です。

ここから先は、本当に長い停滞期に入ります。

2007年から2011年まで、ウィリアムズはコンストラクターズで4位から9位の間を行ったり来たりしました。

中団からときどき上に顔を出す、でも勝てない。表彰台にもなかなか登れない。フェラーリやマクラーレン、新興勢力のレッドブルとの差は開く一方でした。

そして2012年5月、パストール・マルドナードがスペインGPで勝利します。モントーヤが2004年のブラジルGPで勝って以来、8年ぶりのウィリアムズの優勝でした。

当時のニュースを読み返すと、「フレーク(まぐれ)の勝利」という表現がやけに目につきます。実際、ベネズエラから多額のスポンサー資金を持ち込んだマルドナードは、必ずしもF1界で評価の高いドライバーではありませんでした。それでも、ウィリアムズが勝った。

そして驚くべきことに、この2012年スペインGPの優勝が、いまに至るまでウィリアムズの最後の勝利となっています。14年前。フェラーリやマクラーレンの最近の優勝と比べると、その長さがちょっと信じられない。

2000年代以降の節目出来事
1997年ルノー撤退、ニューウェイ移籍
2005年BMWパートナーシップ終了
2006年コスワース回帰、コンストラクターズ8位
2012年スペインGPマルドナード優勝(最後の勝利)
2013年5ポイント、9位(最悪期)
2021年ベルギーGPラッセル3位(最後の表彰台)

正直に言って、わかりません。ウィリアムズがなぜここまで坂を下ったのか。エンジン・パートナーの問題なのか、財政的なリソースの差なのか、組織の老朽化なのか。

複数の要因が絡んでいるとは思いますが、ひとつ確かなのは、F1という競技がこの20年間で「金がモノを言うスポーツ」に大きく傾いた ということです。

メルセデス、フェラーリ、レッドブルといった工場を持つチームと、メーカー系ではない家族経営のウィリアムズでは、開発予算が桁違いでした。

そして2013年、ウィリアムズはコンストラクターズ9位、わずか5ポイントという、創設以来最悪の成績に沈みます。

それまで正式なチーム代表は父フランクでしたが、この2013年に、長女クレアが副チーム代表に就任することになります。

次の章では、父フランクから娘クレアへの継承を書いていきます。母ヴァージニアの死、発表の延期、副の肩書きが意味したもの。 「彼女は事実上のチーム代表だったが、最後まで『副』だった」 という、ウィリアムズという家族の物語の核心に入っていきます。

第4章 父から娘へ、2013年の継承

2013年というのは、ウィリアムズという家族にとって本当に重い年でした。

第3章で書いたとおり、その年のウィリアムズはコンストラクターズ9位、わずか5ポイント。創設以来最悪の成績を記録します。

チームは坂を下り続けていた。そんな状況のなか、創設者フランクは70歳を迎え、組織としての継承を真剣に考え始めていました。

そこで指名されたのが、フランクの長女、 クレア・ウィリアムズ です。当時36歳。

ただ、クレアの就任発表は、本来は2013年シーズン開幕前に行われる予定でした。シーズン開幕戦のオーストラリアGPは3月17日。発表のタイミングはそのあたりに合わせる計画だったようです。

ところが、3月7日。母ヴァージニアが、2年半に及ぶがんとの闘病の末、66歳で亡くなりました

2010年に診断を受け、最後はオックスフォードシャー州グローブの自宅で、家族に見守られて。

フランクの妻、クレアの母、ウィリアムズ・ファミリーの精神的支柱。1986年にフランクが交通事故で四肢麻痺になったあと、彼を支え続け、チームの初期にはヴァージニアが自分の資金を投じてチームを存続させたこともあった人。

1991年には『A Different Kind of Life』という自伝を書いていて、F1関係者には今でも愛読書として知られています。そのヴァージニアが亡くなった。

家族としてもチームとしても、まずは喪に服する必要がありました。ウィリアムズ・ファミリーは、家族のプライバシーへの配慮から、発表を3月27日まで延期します。

そして公式声明には、フランクの言葉が記されました。「この任命にはヴァージニアの祝福も得ていた。彼女はクレアが私の隣でこの役割を引き受けるのを、誇りに思っただろう」

母の死と、娘の就任。この2つが、わずか20日間のあいだに重なった年でした。

2013年3月、2つの出来事日付
母ヴァージニア死去(66歳)3月7日
クレア副チーム代表就任発表3月27日
当初の発表予定シーズン開幕前
延期理由家族のプライバシー配慮

ここで、クレアの肩書きについてきちんと書いておきたいと思います。

クレアの正式タイトルは「Deputy Team Principal(副チーム代表)」。チーム代表は引き続き父フランクでした。でも、実際の日々のチーム運営はクレアが担当していました。

父は車椅子の身で、常にレース現場に行けるわけではない。クレアが事実上のチームボス、というのが現実でした。英語圏のF1メディアは、彼女のことを 「de facto team principal(事実上のチーム代表)」 と呼んでいます。

クレアの立場詳細
正式肩書き副チーム代表(Deputy Team Principal)
実際の役割日常的なチーム運営の全般
父フランクの立場正式なチーム代表(保持)
英語圏メディアの表現de facto team principal

クレアは1976年生まれ。ニューカッスル大学で政治学を学び、1999年に卒業。シルバーストン・サーキットの広報担当からキャリアをスタートし、2002年にウィリアムズに広報担当として入社。

そこから10年ちょっとで、副チーム代表まで上り詰めた ことになります。

ただし、これは「父の威光で昇進した」というシンプルな話ではないと思います。

ESPNの記事によれば、クレアは2010年に広報部長に昇進したあと、3年間で4回の昇進を経験しています。

投資家対応の責任者、マーケティング・コミュニケーション部長、コマーシャル・ディレクター、そして副チーム代表。さらに2012年に父フランクが取締役会から退いたとき、ウィリアムズ家を代表して取締役の座にも就いた。

スポンサー契約、上場手続き、ブランド戦略、そういう商業的な部分でも実績を残してきたうえでの就任でした。

それでも当時のRaceFansのコメント欄には、 「メルセデスが彼女を引き抜くまであと5分」 みたいな冗談まで投稿されていて、業界内ではむしろ「フランクがついに後継者を見つけた」と歓迎されたムードもあったようです。

次の章では、クレアが引き継いだ直後の2014年と2015年、ウィリアムズがコンストラクターズで2年連続3位という奇跡的な復活を遂げた話を書いていきます。

そして、その後の急降下。 「彼女は最高の時期から始まり、最低の時期で終わった」 という、運命のようなカーブが見えてきます。

第5章 二度の3位、そして急降下

クレアが副チーム代表に就任した直後、ウィリアムズには思いがけない追い風が吹きました。

2014年から、F1は1.6リッターV6ターボハイブリッド時代に入ります。ウィリアムズは長年使ってきたコスワース・エンジンから、メルセデスの新しいパワーユニット PU106A Hybrid に切り替えました。これがハマる。

開幕前のテストから、ウィリアムズの2014年マシンFW36のストレートスピードが圧倒的に速いと、F1関係者の間で評判になります。

2014年シーズン、ウィリアムズはコンストラクターズ3位。9回の表彰台、320ポイント。前年のたった5ポイントから、いきなり64倍です。

2014年の復活劇数字
前年ポイント5ポイント
2014年ポイント320ポイント(64倍)
表彰台9回
最終順位コンストラクターズ3位
パワーユニットメルセデスPU106A Hybrid

Bleacher Reportの当時の記事に、面白い記述がありました。「マッサとボッタスの2人で、2014年だけで9回の表彰台。それ以前の9年間で、ウィリアムズが獲得した表彰台の合計は8回だった」

つまり1年で過去9年間分以上を稼いだ。これがどれだけ劇的な復活だったか、わかると思います。

ドライバーは、フェラーリから移籍してきたフェリペ・マッサと、3年目のバルテリ・ボッタス。マッサはフェラーリで「ナンバー2」の立場に長く甘んじていたベテラン、ボッタスは将来のチャンピオン候補と目されていた若手。

クレアは後年「自分のお気に入りのドライバーラインナップだった」 と語っています。

2015年も同じ体制でコンストラクターズ3位。2年連続で3位を確保しました。チーム代表として就任直後の2年連続3位というのは、けっこう凄い実績だと思います。

ただ、ここから先が苦しい。

コンストラクターズ順位
2014年3位(320ポイント)
2015年3位
2016年5位
2017年5位
2018年10位(7ポイント)
2019年10位(1ポイント)
2020年10位(0ポイント)

2016年、ウィリアムズは5位に後退しました。原因は複数ありました。

ESPNの当時のシーズンレビューによれば、技術ディレクターのパット・シモンズが「シーズンを通じての開発の方向性が、十分な改善の機会をもたらさなかった」と認めています。同じメルセデスPUを使うフォース・インディアに、 「メルセデス・カスタマーの最上位」の座を奪われました

2017年も5位。ボッタスがメルセデスへ移籍し、代わりに18歳のランス・ストロールがF1デビュー。父親のローレンス・ストロールが多額の持ち込み資金を提供したと言われています。

この時期から、ウィリアムズの財政事情が苦しいことが目立つようになりました

そして2018年。ここから本当の地獄が始まります。

2018年、ウィリアムズのドライバーはランス・ストロールとセルゲイ・シロトキン。シロトキンはロシア系の銀行 SMP Bank からの持ち込み資金で起用された無名のドライバーでした。マシンFW41は明らかに競争力を欠いていて、シーズンを通して7ポイント、最下位。

2019年は、もっとひどかった。シーズン開幕に間に合わずに2日遅れでテストに登場し、ジョージ・ラッセルとロバート・クビカが乗ったFW42は、グリッドで最も遅いマシンでした。

クビカは2011年のラリー事故で右手に重度の障害を負いながら、奇跡的にF1復帰を果たしていたポーランド人ベテラン。彼が獲得した1ポイント(ドイツGP10位)が、チームのシーズン唯一の得点となりました。

ここで2019年シーズン開幕前に、突然タイトル・スポンサーとして登場したのが ROKiT という通信会社でした。ジョナサン・ケンドリックという人物がオーナー。3年契約、初年度の支払いは1,900万ドル(約29億円)と報じられています。

ところが、2020年のCOVID-19によるシーズン延期が、すべてをひっくり返します。

レースの数が減り、ROKiTは「契約通りの権利が得られなかった」と主張して支払いを拒否。一方ウィリアムズは「ROKiT側の支払い遅延が問題だ」と反論。両者の関係は急速に悪化していきました。

2020年5月、ウィリアムズはROKiTとの契約を一方的に解除します。クレアは公式声明で「契約上の義務はすべて果たした」と発表しましたが、実態としては、タイトル・スポンサーが事実上消えたことになります。

ROKiT問題の経緯出来事
2019年1月ウィリアムズと3年契約
2020年5月ウィリアムズ側から契約解除
仲裁機関ロンドン国際仲裁裁判所
判決結果ウィリアムズ勝訴
和解金約2,622万ポンド(約51億円)

タイトル・スポンサーを失い、2020年シーズンは無印で開幕しました。マシンに大きなロゴはなく、青と白を基調としたシンプルな塗装。そしてこのシーズン、ウィリアムズは0ポイントでコンストラクターズ最下位を記録しました。

The Race の表現を借りると、 「ウィリアムズの技術的リーダーシップの不安定さが、復活への希望を阻んでいる」 という状況。

ここまで来ると、もう個々のドライバーやマシンの問題ではなく、チームの構造そのものが限界を迎えていたのだと思います。

クレアは後にBusiness of Sportのポッドキャストで、当時を振り返ってこう語っています。意訳すると、 「私たちは売り渋った売り手だった。人生がそういう道を辿らせた」

チームを売りたくなかった。でも、売らなければチームは消えてしまう。そんな矛盾のなかで、2020年の夏に大きな決断が下されることになります。

次の章では、2020年8月のDorilton Capitalへの売却、43年間続いたウィリアムズ家の経営の終わりを書いていきます。

1億7,950万ドル(約278億円)でチームを手放した夏。そして、9月のイタリアGPがクレアと父フランクの「最後のレース」になった話に進みます。

第6章 売却の決断、43年の終わり

2020年5月、ウィリアムズは「戦略的レビュー」を開始したと発表しました。これは「チームの売却を含む、あらゆる選択肢を検討する」という、F1の世界ではほぼ「売却します」と同義の表現でした。

そして3カ月後の 2020年8月21日ウィリアムズは米Dorilton Capitalに売却されます。

買収額は 1億5,200万ユーロ、当時のレートで1億7,950万ドル(約278億円) でした。

2020年8月21日の売却内容
買い手Dorilton Capital(米ニューヨーク)
買収額1億5,200万ユーロ/1億7,950万ドル
日本円換算約278億円
チーム名ウィリアムズ維持
本拠地オックスフォードシャー州グローブ継続
マシン型番「FW」プレフィックス維持

Dorilton Capitalというのはニューヨークとヒューストンにオフィスをもつプライベートインベストメントファームで、F1の世界ではほぼ無名でした。

ただ、Williams Racing 公式声明によれば、このグループは「長期投資のアプローチで知られている」とのことで、F1の伝統と文化を尊重することを約束していました。

実際、チーム名、本拠地、シャシー番号の「FW」というプレフィックス、これらすべてが維持されたのは、ウィリアムズ家のレガシーへの一定の敬意の表れだったと言えるかもしれません。

クレアは後に、売却を決断した理由について繰り返し語っています。 「ROKiTを訴えて勝訴し、3,000万ポンド(約58億円)の賠償が認められました。でも、彼らは払わなかった。それが2020年に大きな穴を開けたのです」

これに加えて、COVID-19のロックダウンが直撃します。 「メルボルンに着いたらCOVIDが来て、7月までレースができませんでした。レースをしないと、お金が入ってこないのです」

売却を決断した主要要因内容
ROKiT離脱タイトルスポンサー喪失
COVID-19シーズン延期で収入なし
2019年の損失約1,300万ポンド(約25億円)の赤字
父フランクの状態78歳、四肢麻痺で経営関与困難

最後の決め手は、シンプルにキャッシュフローの問題でした。レースをしなければ収入がない。スポンサーは払わない。借入は限界に近い。

そして、クレアの父フランクは78歳、四肢麻痺の状態で、もはや日常的に経営に関与できる状態ではない。チームを存続させるためには、外部資本を入れるしかなかった。

クレアは2024年9月、Business of Sportというポッドキャストで、当時の心境を率直に語っています。意訳すると、 「『あの娘は大げさだ』と思われるでしょうが、私は彼女(ウィリアムズ)を失った悲しみと、毎日生きていきます。F1に飽きたわけでも、現金化したかったわけでもありません。私たちは残りたかった。それが私たちの人生でした。私は自分の息子や甥たちのためにチームを運営したかったのです」

このコメントを読んだとき、書き手として正直、胸が痛くなりました。

クレアには、新オーナーDorilton Capitalから「チーム代表として残ってほしい」というオファーがあったそうです。彼女はそれを断りました。

2020年9月のイタリアGP(モンツァ)が、ウィリアムズ家としての最後のレースとなります。

このイタリアGP、家族経営として通算 739戦目 だったとAutoweekは報じています。1977年のスペインGPから始まって、739戦。43年間、一族のリーダーシップのもとで戦い続けた、その最後のレースでした。

レース後、ウィリアムズの従業員たちはクレアに、2014年のFW36のフロントウィングをプレゼントしました。チームの全社員のサインが入っていたそうです。

FW36は、第5章で書いた、彼女の在任中に最も輝いた年、コンストラクターズ3位を獲得した年のマシンです。書き手としては、このエピソードに何とも言えないものを感じました。社員たちがクレアの最高の瞬間を、最後に手渡したのです。

2020年9月、最後のイタリアGP詳細
レース番号家族経営として通算739戦目
期間1977年から43年間
開催地モンツァ
従業員からの贈り物FW36のフロントウィング
贈り物の特別な点全社員のサイン入り

クレアは後に、もう一つ印象的な発言をしています。 「私たちは1年で間に合わなかった」

意味するところは、Netflixの『Drive to Survive』がF1に巨額の資金を呼び込み始めた、まさにその直前にウィリアムズを売却してしまった、という後悔でした。 「F1に流れ込んでくるお金は、いま、信じられない金額です。残念ながら、私たちはそれを1年逃しました」

歴史にIFはありません。でも、もしあと1年待てていたら。もしROKiTがちゃんと払っていたら。もしCOVIDが来ていなかったら。

そう考えると、43年の家族経営は、ほんとうに紙一重のところで終わった のかもしれません。

次の章では、クレアの個人的な物語に踏み込みます。チーム代表として1,800人の従業員を率い、シーズンごとに数百億円の予算を動かしていた女性が、夫からどんなプロポーズを受けたか。

そして、退任後の彼女がいま何をしているか。 ハリボーの指輪のエピソード から始まる章になります。

第7章 ハリボーの指輪、そしてその後

第5章と第6章は、けっこう重い話が続きました。チームが3年連続最下位になり、スポンサーが消え、43年の家族経営が終わった話。

この章では、もう少し違う角度から、クレア・ウィリアムズという一人の女性を見てみたいと思います。

書き手として今回いちばん印象に残ったエピソードがありました。クレアが夫マルク・ハリスから受けたプロポーズの話です。

2017年。クレアは妊娠していました。8カ月。お腹も大きい。チーム代表として日常的に1,800人の従業員を率い、シーズン中はパドックを駆け回り、スポンサーと交渉し、ドライバーと話し、エンジニアと議論する。F1という世界でトップ10チームを動かすことの重みを、毎日背負っていた女性です。

そんな彼女が、ある日、自宅のソファに座っていました。隣には夫のマルク。

そこでマルクが、ハリボーのキャンディーリングで、プロポーズをしたのです

ハリボーのプロポーズ詳細
2017年
クレアの状態妊娠8カ月
場所自宅のソファ
指輪ハリボーのキャンディー
理由本物の指輪のサイズが合わなかった

ハリボー(Haribo)はドイツの老舗キャンディーメーカーです。日本だとグミベアで有名ですが、向こうではキャンディー型のリング(リング状のグミ)も売っていて、子供がよく食べているお菓子です。値段は1袋数百円。

なぜキャンディーリングだったかというと、 「妊娠8カ月で指のサイズが合わなくて、ちゃんとした指輪を買ってあげられなかったから」 だそうです。

これはクレア自身が、ウェディングドレスを作ったデザイナーのキャロライン・カスティリアーノとのインタビューで語っています。 「完全なサプライズでした。でも私はずっと『プロポーズするならソファでしてね』と言っていたんです」

書き手として、このエピソードに何とも言えないものを感じました。

イギリスの名門F1チームの事実上のボス。コンストラクターズ・タイトルを9回獲得した王朝の継承者。F1史上数少ない女性チームボスのうちの一人。そんな彼女が、自宅のソファで、お腹を大きくして、ハリボーのキャンディーで指輪をはめてもらう

なんというか、人生って、こういうものなのかもしれません。

仕事ではマルティーニ・ストライプの華やかなチームを率いて、何百億円という予算を動かして、世界中のレースを飛び回って。でも、本当に大切な瞬間は、自宅のソファで、グミの指輪で、お腹の中の赤ちゃんと一緒に訪れる。

クレアの家庭詳細
マルク・ハリス(ランス・ストロールの元エージェント)
長男ネイサニエル(ネイト)─2017年10月10日生まれ
結婚式2018年1月、ロンドンのクラリッジス
ウェディングドレスキャロライン・カスティリアーノ

その後、長男ネイサニエル(ネイト)が2017年10月10日に誕生。クレアは出産のため数戦のグランプリを欠場し、ネイトが生まれた当日には、ウィリアムズのTwitterアカウントから「Congratulations Claire and Marc!」というメッセージが投稿されました。

マルクは前妻との間に2人の娘がいて、ネイトには異母姉が2人います。

ちなみに、夫マルク・ハリスは、F1界では知られた人物です。News for Speedの記事によれば、マルクはランス・ストロールのエージェントでした。

ランス・ストロールというのは2017年からウィリアムズで走った、カナダ人ファッション・億万長者ローレンス・ストロールの息子です。つまりクレアは、自分のチームに所属するドライバーのエージェントと結婚した、ということになります。

F1パドックは狭い世界、と言ってしまえばそれまでですが、ちょっと面白い縁ですね。

結婚式は2018年1月、ロンドンの高級ホテル、クラリッジスで挙げられました。クレアはスワロフスキー・クリスタルをあしらったキャロライン・カスティリアーノのドレスを着て、 「ドレスを脱ぎたくなかった。毎年結婚記念日に着るつもり」 と語っていました。

さて、ハリボーの指輪の話から、もう少しクレアの「その後」を書いていきます。

2020年9月にウィリアムズを去ったあと、クレアは2年ほどF1の世界から距離を置いていました。 「F1を見ることをやめている」 という発言もあったほどです。

心の整理に時間が必要だった、ということだと思います。

ただ、2023年あたりから、彼女はF1の世界に少しずつ戻ってきました。

退任後のクレアの活動内容
Sir Frank Williams Academy設立2023年4月
Fortescue Zeroグローバル・ブランド・アンバサダー
Drive to Survive2024年・2025年シーズン解説者
Spinal Injuries Association副会長
サンタンデール銀行ブランド・アンバサダー

特に印象的なのが、 Sir Frank Williams Academy という慈善活動です。これは脊髄損傷を負った人々への支援活動で、Spinal Injuries Association(脊髄損傷協会)と連携して2023年4月に設立されました。

父フランクが1986年の事故で四肢麻痺になりながらも、車椅子からF1チームを9度のチャンピオンに導いた人生を、別の形で受け継ぐためのプロジェクトです。

クレアは2024年からNetflixの『Drive to Survive』に、F1解説者として復帰しました。画面に映る彼女は、もうチーム代表のスーツ姿ではなく、外部の専門家として、客観的にチームを語る人になっていました。

書き手としても、これは時間が彼女を変えた、というよりは、時間が彼女を解放したのかもしれない、と感じます。

Business of Sport のポッドキャストで、クレアは新オーナーとチームの現在についてこう語っています。意訳すると、 「ジェームズ・ボウルズ(現チーム代表)がチームを率いるようになったのは天才的な選択だと思います。父も喜んだはずです」

これは父を失った娘の、本当に静かな祝福だと思いました。

そして、書き手としては、これからもF1のテレビ中継で、 「Williams」というロゴが画面の隅に映るたびに 、フランクとクレア、そしてヴァージニアの顔を、ちょっと思い出すんだろうな、と思います。

王朝を建てた人。王朝を看取った人。王朝を支えた人。3人とも、もう「正式なチーム」とは関係がありません。でも、ウィリアムズという名前がF1にある限り、彼らの物語はまだ終わっていない。そういう話だと、書き手は受け止めています。