目次
第1章 「徳大寺有恒」とは何者か
徳大寺有恒(とくだいじ ありつね)は、日本の自動車評論家です。
元レーシングドライバーでもありました。
本名は杉江博愛(すぎえ ひろよし)といいます。
1939年11月14日、東京・原宿に生まれました。
2014年11月7日、急性硬膜下血腫(きゅうせいこうまくかけっしゅ)のため亡くなりました。
74歳でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 杉江博愛(すぎえ ひろよし) |
| 生年月日 | 1939年11月14日 |
| 出身 | 東京・原宿 |
| 没年月日 | 2014年11月7日(74歳) |
| 死因 | 急性硬膜下血腫 |
| 主な職業 | 自動車評論家、元レーシングドライバー |
代表作は『間違いだらけのクルマ選び』(数え方にもよるが全41冊)です。
1976年に世に出たこの本の1作目は、続編と合わせて100万部を超えるベストセラーになりました。
それまで自動車雑誌は、メーカーをほめる記事が中心でした。
そこへ、買う人の側に立った辛口の批評が登場したのです。
読者は熱狂しました。
「間違いだらけの」という言葉は、流行語にもなりました。
「徳大寺有恒」という名前は、ペンネームです。
本人が「できるだけ偉そうにしよう」と決めて付けた名前でした。
姓は、公家(くげ)の名門・徳大寺家から借りています。
ただし、その徳大寺家と血縁や姻戚の関係はまったくありません。
あくまで、響きの格調高さにあやかったものでした。
彼の人生は、決して平坦ではありませんでした。
若い頃はトヨタの契約レーシングドライバーでした。
その後はカー用品会社を興し、青年実業家として成功します。
しかし会社は倒産し、巨額の借金を背負いました。
タクシー運転手をしながら、その日暮らしをしのいだ時期もあります。
そこから一冊の本で這い上がり、日本一の辛口評論家になったのです。
レーサー、実業家、タクシー運転手、そして評論家。
| 時期 | 肩書き | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1960年代前半 | レーシングドライバー | トヨタの契約ドライバー |
| 1960年代後半 | 青年実業家 | カー用品会社を経営、のち倒産 |
| 1976年〜 | 自動車評論家 | 『間違いだらけのクルマ選び』で大ブレイク |
さらに彼の周りには、日本のモータースポーツ黎明期を駆けた仲間たちがいました。
その多くは、若くして事故で命を落としています。
次の章から、その波乱の生涯を順にたどっていきます。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 本名 | 杉江博愛。「徳大寺有恒」はペンネーム |
| ペンネームの由来 | 公家の徳大寺家にあやかり「できるだけ偉そうに」と命名。血縁はない |
| 代表作 | 『間違いだらけのクルマ選び』(1976年、続編と合わせ100万部超) |
| 三つの顔 | レーサー、実業家、評論家を渡り歩いた波乱の生涯 |
| 引用元 |
|---|
| webCG「自動車評論家 徳大寺有恒氏が死去」(2014年11月8日) |
| 日本経済新聞「徳大寺有恒氏が死去 『間違いだらけのクルマ選び』著者」(2014年11月8日) |
| 共同通信/琉球新報「自動車評論家の徳大寺有恒氏死去 新車批評の先駆け」(2014年11月8日) |
| Wikipedia「徳大寺有恒」 |
第2章 きら星の仲間たち
杉江博愛、つまり後の徳大寺有恒は、ひとりではありませんでした。
彼の周りには、同じ熱を持った若者たちが集まっていました。
その中心にいたのが、式場壮吉(しきば そうきち)です。
千葉県市川市の精神科病院「式場病院」の御曹司(おんぞうし)でした。
成城大学時代からの友人で、杉江の生涯の盟友になります。
のちに歌手の欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)と結婚した人物でもあります。
式場は1964年の第2回日本グランプリのレースで、ポルシェ904を駆って優勝したことでも知られます。
これは年間王者ではなく、ひとつのレースでの勝利です。
彼らが集ったのは、東京・飯倉(いいぐら or いいくら)のイタリア料理店「キャンティ」でした。
ホテルオークラのラウンジにも顔を出しました。
式場はアマチュアのジャズマンでもありました。
店にはミッキー・カーチスやムッシュかまやつ、堺正章といった顔ぶれも出入りしていました。
クルマと音楽と遊びが入り混じった、華やかなサークルだったのです。
| 場所 | 内容 |
|---|---|
| 飯倉「キャンティ」 | 若者たちが集ったイタリア料理店 |
| ホテルオークラ | ラウンジにも出入り |
| 共通の装い | のちにレーシングメイトのジャケットが憧れに |
メンバーを並べてみます。
浮谷東次郎(うきや とうじろう)。
生沢徹(いくざわ てつ)。
福澤幸雄(ふくざわ さちお)。
そして本田博俊(ほんだ ひろとし)です。
いずれも日本のモータースポーツ黎明期を駆けた若者たちでした。
| 人物 | 立場・特徴 |
|---|---|
| 式場壮吉 | 式場病院の御曹司。徳大寺の盟友。妻は欧陽菲菲 |
| 浮谷東次郎 | 千葉の大地主の家。『がむしゃら1500キロ』の著者 |
| 生沢徹 | 黎明期を代表するレーサー。浮谷のライバル |
| 福澤幸雄 | 福澤諭吉の曾孫。モデルとしても活躍 |
| 本田博俊 | 本田宗一郎の息子。「無限」創設者 |
本田博俊は、あの本田宗一郎の息子です。
のちにチューニングブランド「無限」を創設します。
杉江は宗一郎の愛車を借りて、ドライブに出かけることもありました。
浮谷東次郎と本田博俊が友人になった経緯も、印象的です。
浮谷は中学3年の夏、50ccのバイクで市川から大阪まで往復しました。
その体験記を、浮谷は『がむしゃら1500キロ』という本にまとめます。
浮谷はこの本を本田宗一郎に送りました。
「あなたの息子の博俊さんと友人になりたい」と書き添えてです。
心を動かされた宗一郎は、息子に浮谷と友人になるよう勧めました。
こうして同い年の2人は結ばれたのです。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| キャンティ族 | 飯倉のレストランに集った若者サークル |
| 盟友・式場壮吉 | 式場病院の御曹司。妻は欧陽菲菲 |
| きら星の仲間 | 浮谷東次郎、生沢徹、福澤幸雄、本田博俊 |
| 本田家との縁 | 浮谷が本田宗一郎に本を送り、博俊と友人に |
| 引用元 |
|---|
| Wikipedia「式場壮吉」 |
| Wikipedia「徳大寺有恒」 |
| Wikipedia「浮谷東次郎」 |
| 野地秩嘉『キャンティ物語』(幻冬舎、1994年) |
第3章 レーサー徳大寺と、散っていった仲間たち
杉江がレーサーになったのは、盟友・式場の推薦でした。
1960年代の初め、彼はトヨタの専属契約ドライバーになります。
月給は5万5000円でした。
会社からは2代目コロナを借り受けています。
レース用に90馬力まで高められたエンジンを積んだ車でした。
この車で、彼は日本グランプリに出走しました。
ラリーにも出ています。
ただし、レーサーとしての日々は短く終わりました。
チーム内のドライバー集約、つまりリストラにあったのです。
彼はハンドルを手放すことになりました。
後年、彼は自分をこう振り返っています。
「腕よりも、闘争心が足りなかった」。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 契約 | トヨタの専属契約ドライバー(式場の推薦) |
| 月給 | 5万5000円 |
| 車両 | 会社貸与の2代目コロナ(レース用エンジン90馬力) |
| 出走 | 日本グランプリ、ラリー |
| 引退 | チームのドライバー集約により引退 |
レースを去る前、彼には仲間を支える役回りもありました。
当時の映像には、船橋サーキットで浮谷東次郎にピットサインを送る若き日の杉江の姿が残っているといわれます。※映像は入手できなかったです
そして、仲間たちには、もっと過酷な運命が待っていました。
最初に逝ったのは、浮谷東次郎でした。
1965年7月、浮谷は船橋サーキットで2つのレースを制しています。
1日に2勝という、鮮烈な走りでした。
そのわずか1か月後のことです。
1965年8月20日、浮谷は鈴鹿サーキットで練習走行をしていました。
乗っていたのは、レース用の車ではありませんでした。
童夢の創設者として知られる林みのる(はやし みのる)の、ホンダS600でした。
立体交差を過ぎた150R(現在の130R)で、事故は起きました。
コースの上を、2人の人が歩いていたのです。
落としたホイールを探していた人たちでした。
浮谷は2人を避けようとハンドルを切りました。
しかし車は制御を失い、コース脇の水銀灯(すいぎんとう)に激突します。
体は車の外へ放り出されました。
両足を骨折し、頭を強く打ちました。
浮谷はシートベルトをしていませんでした。
翌8月21日、脳内出血のため息を引き取ります。
23歳の若さでした。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 中学3年 | 50ccバイクで市川〜大阪を往復(『がむしゃら1500キロ』) |
| 1965年7月18日 | 船橋サーキットで2レースを制覇 |
| 1965年8月20日 | 鈴鹿で練習走行中に事故 |
| 1965年8月21日 | 脳内出血で死去(23歳) |
次に逝ったのは、福澤幸雄でした。
福澤諭吉の曾孫(そうそん)にあたる人物です。
モデルとしても活躍した、華やかなレーサーでした。
1969年2月12日、静岡県袋井市のヤマハテストコースでのことです。
彼が走らせていたのは、開発中のレーシングカー「トヨタ7」でした。
試作のロングテールボディを架装した車です。
直線から1コーナーへ向かう途中、車は突然コースを外れました。
コース脇の標識の鉄柱に激突し、炎上します。
死因は頭蓋骨(ずがいこつ)骨折による脳挫傷(のうざしょう)でした。
標識に当たった時点で、即死だったとみられています。
25歳でした。
浮谷の事故が「練習走行」中だったのに対し、福澤の事故は車の「開発テスト」中でした。
走っていた目的が、まったく違いました。
| 項目 | 浮谷東次郎 | 福澤幸雄 |
|---|---|---|
| 没年月日 | 1965年8月21日 | 1969年2月12日 |
| 享年 | 23歳 | 25歳 |
| 場所 | 鈴鹿サーキット | ヤマハ袋井テストコース |
| 状況 | 練習走行中 | 開発テスト中 |
| 車両 | ホンダS600 | トヨタ7 |
きら星は、ひとつ、またひとつと消えていきました。
親しい仲間を見送る痛みを、杉江は何度も味わったのです。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| レーサー時代 | トヨタの契約ドライバー。月給5万5000円 |
| 引退の理由 | チームのドライバー集約。「闘争心が足りなかった」 |
| 浮谷の死 | 1965年、鈴鹿での練習走行中の事故。23歳 |
| 福澤の死 | 1969年、袋井でのトヨタ7のテスト中の事故。25歳 |
| 引用元 |
|---|
| Wikipedia「浮谷東次郎」 |
| Wikipedia「福澤幸雄」 |
| Wikipedia「トヨタ・7」 |
| AUTOCAR JAPAN「TOJIRO 夢と青春の痕跡、浮谷東次郎と船橋サーキットの伝説」(2017年5月10日) |
| 徳大寺有恒『駆け抜けてきた 我が人生と14台のクルマたち』(東京書籍、2013年8月) |
第4章 栄光から倒産へ
レースを去った杉江が次に選んだのは、商売の道でした。
盟友・式場たちとともに、自動車用品の会社を立ち上げます。
会社の名は「レーシングメイト」。
東京・文京区に拠点を置きました。
杉江は専務(せんむ)に就きました。
トレードマークは、四つ葉のクローバーでした。
アパレルブランドのVAN(ヴァンヂャケット)とも組みました。
ドレスアップ用品からチューニングパーツ、ウェアまで手がけました。
クルマを着飾る文化を、まるごと提案する会社だったのです。
今でいうアフターパーツメーカーの先駆けでした。
浮谷や生沢といったレーサーたちも、レーシングメイトのジャケットを着ていました。
それは当時の若者の憧れだったのです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 設立 | 式場壮吉らと設立(東京・文京区) |
| 徳大寺の役職 | 専務 |
| トレードマーク | 四つ葉のクローバー |
| 扱った商品 | ドレスアップ用品、チューニングパーツ、ウェア |
| 提携 | VAN(ヴァンヂャケット)とのダブルネーム |
会社は自家用車ブームに乗って急成長します。
従業員は40名を数えました。
杉江は原宿の高級マンション「コープオリンピア」に住みました。
夜ごと銀座で豪遊する、若き青年実業家でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 従業員 | 約40名 |
| 住まい | 原宿の高級マンション「コープオリンピア」 |
| 夜の生活 | 連夜、銀座で豪遊 |
しかし、栄華は長く続きませんでした。
取引先の倒産や不渡り(ふわたり)の影響を受けたのです。
1969年、レーシングメイトは倒産します。
杉江が背負った借金は、本人の回想によれば、およそ3億円でした。
所有していた車も、すべて手放しました。
銀座で豪遊した男が、一転してどん底に落ちたのです。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1960年代後半 | レーシングメイトが急成長 |
| 1969年 | 取引先の影響を受けて倒産 |
| 倒産後 | 借金約3億円(本人談)、所有車をすべて売却 |
| この章のまとめ | |
|---|---|
| レーシングメイト | 式場らと興した自動車用品会社。専務に就任 |
| 先進性 | VANと組み、四つ葉のクローバーで若者を魅了 |
| 絶頂期 | 従業員40名、原宿の高級マンション、銀座で豪遊 |
| 倒産 | 1969年に倒産。借金は本人談で約3億円 |
| 引用元 |
|---|
| Wikipedia「徳大寺有恒」 |
| Wikipedia「式場壮吉」 |
| webCG「第272回 巨匠との思い出(前編)」(自動車評論家 徳大寺有恒さんをしのんで) |
| clicccar「自動車評論家 徳大寺有恒さんが逝去【今日は何の日?11月7日】」 |
第5章 『間違いだらけのクルマ選び』と不死鳥の復活
倒産後の杉江の暮らしは、厳しいものでした。
彼はタクシーの運転手などをして、その日をしのぎました。
やがてフリーランスとして、文章を書き始めます。
ファッション誌「チェックメイト」(講談社)のライターになりました。
転機は、病の床で訪れます。
倒産の心労もあって、彼は体を壊しました。
糖尿病で入院することになります。
そのベッドの上で、彼は約300枚の原稿を書きました。
当時のトヨタの車種戦略を批評した文章でした。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1969年〜 | 倒産後、タクシー運転手などで生活 |
| その後 | ファッション誌「チェックメイト」のライターに |
| 入院中 | 病床で約300枚の原稿を執筆 |
| 1976年 | 『間違いだらけのクルマ選び』を刊行 |
評価の物差しにしたのは、1台の輸入車でした。
不遇の時代に、無理をして買った黄色いフォルクスワーゲン・ゴルフです。
初代ゴルフの出来栄えに、彼は心底感心していました。
この1台を基準に、彼は日本車を測ったのです。
1976年、その原稿が本になります。
タイトルは『間違いだらけのクルマ選び』。
出版したのは草思社でした。
著者名は、本名の杉江博愛ではありませんでした。
「徳大寺有恒」という、覆面の筆名だったのです。
メーカーを敵に回す内容ゆえの、配慮でした。
本は、たちまち大反響を呼びました。
メーカーにこびない辛口の批評は、それまでになかったものでした。
読者は、買う人の側に立ったその姿勢に熱狂しました。
「間違いだらけの」という言葉は、流行語にもなりました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 刊行 | 1976年、草思社 |
| 著者名 | 徳大寺有恒(覆面の筆名) |
| 評価の物差し | 初代フォルクスワーゲン・ゴルフ |
| 部数 | 続編と合わせて100万部超 |
| 特徴 | メーカーにこびない辛口批評、ユーザー視点 |
一方で、業界はざわつきました。
「徳大寺有恒とは、いったい誰なのか」
文体などから、「杉江博愛ではないか」と囁かれました。
やがて「杉江をAJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)から追放せよ」という声まで上がります。
杉江はAJAJを脱退しました。
なお、これは自ら脱退したとも、追放されたとも伝えられています。
そして続編を出すタイミングで、彼は記者会見を開きます。
その場で、自らが徳大寺有恒であることを明かしました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 覆面出版の理由 | メーカーを敵に回す内容への配慮 |
| 囁かれた正体 | 文体などから「杉江博愛では」と噂に |
| AJAJ | 追放論が起き、杉江は脱退(追放とも伝わる) |
| 公表 | 続編刊行時、記者会見で自ら正体を明かす |
『間違いだらけのクルマ選び』は、続編と合わせて100万部を超えました。
タクシー運転手から、日本一の辛口評論家へ。
1台のクルマを物差しにした男の、不死鳥のような復活でした。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| どん底 | 倒産後はタクシー運転手などで生計を立てる |
| 執筆の物差し | 無理して買った初代VWゴルフを評価基準に |
| 1976年刊行 | 草思社『間違いだらけのクルマ選び』が大ヒット |
| 正体公表 | AJAJ脱退ののち、記者会見で自ら名乗り出る |
| 引用元 |
|---|
| Wikipedia「徳大寺有恒」 |
| GAZOO「自動車の未来のために歴史を知ってほしい ―― 徳大寺有恒 ――」 |
| webCG「第272回 巨匠との思い出(前編)」(自動車評論家 徳大寺有恒さんをしのんで) |
| clicccar「自動車評論家 徳大寺有恒さんが逝去【今日は何の日?11月7日】」 |
第6章 ダンディズムを貫いた男
評論家として返り咲いた後の徳大寺は、ひとつのスタイルを貫きました。
葉巻をくゆらせ、酒を愛するダンディでした。
『ダンディー・トーク』という著書もあります。
その一方で、『ぶ男に生まれて』という本も書いています。
自分のコンプレックスや女性関係まで、あけすけに語った一冊でした。
生前の彼を知るライターは、こう評しています。
「カッコはつけるが、ウソは絶対につかない。忘れるだけだ」。
彼は食通でもありました。
高級な料亭でも、街のそば屋でも、態度を変えませんでした。
相手や場所で人を見下すことが、まるでなかったのです。
クルマ選びにも、彼の流儀がありました。
生涯に乗った車は50台を超えるといわれます。
必ず自腹で買いました。
お金をもらって書く評論では、本音が書けないからです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| スタイル | 葉巻と酒を愛するダンディズム |
| 信条 | カッコはつけるが、嘘はつかない |
| 人付き合い | 相手や場所で態度を変えない |
| クルマ | 生涯50台超、必ず自腹で購入 |
愛猫家としての顔もありました。
『眼が見えない猫のきもち』という本を残しています。
| 書名 | 内容 |
|---|---|
| 『ダンディー・トーク』 | 男の生き方や美学を論じる |
| 『ぶ男に生まれて』 | 自身のコンプレックスを赤裸々に綴る |
| 『眼が見えない猫のきもち』 | 愛猫について綴ったエッセイ |
評論の仕事は、評論本だけにとどまりませんでした。
1984年に創刊された自動車雑誌「NAVI」では、座談会形式の名物記事「NAVI TALK」で健筆をふるいました。
彼の批評は、技術や性能だけを論じるものではありませんでした。
クルマを文化として、社会として語ったのです。
その視点が、多くの読者をつかみました。
| 仕事 | 内容 |
|---|---|
| 『間違いだらけのクルマ選び』 | 1976年から続いた人気シリーズ |
| 「NAVI TALK」 | 雑誌「NAVI」の座談会形式の名物記事 |
| 評論の視点 | 技術だけでなく、文化や社会から語る |
晩年まで、徳大寺は重い糖尿病を抱えていました。
それでも筆を止めることはありませんでした。
2014年11月7日、急性硬膜下血腫のため世を去ります。
74歳でした。
レーサー、実業家、タクシー運転手、そして評論家。
仲間の多くを若くして見送りながら、彼は語り部として生き続けました。
日本の自動車文化そのものを変えた男の、波乱に満ちた生涯でした。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| ダンディズム | 葉巻と酒を愛し、美学を貫いた |
| 評論の流儀 | 車は必ず自腹で購入。本音を書くため |
| NAVI TALK | 座談会形式でクルマを文化として語った |
| 最期 | 2014年、74歳で死去。語り部として生き抜いた |
| 引用元 |
|---|
| webCG「第272回 巨匠との思い出(前編・後編)」(自動車評論家 徳大寺有恒さんをしのんで) |
| Wikipedia「徳大寺有恒」(著書一覧) |
| GAZOO「自動車の未来のために歴史を知ってほしい ―― 徳大寺有恒 ――」 |


