「公衆便所のベンチレーター」。
これは、ある辛口評論家がトヨタMR2のデザインを評した言葉です。
言ったのは、モータージャーナリストの三本和彦(みつもと かずひこ)です。
歯に衣着せぬ毒舌は「三本節」と呼ばれ、自動車メーカーから恐れられました。
しかし三本和彦は、ただの毒舌家ではありません。
この記事では、その経歴と、毒舌の具体的な中身、そして実際に日本車を変えた功績までをたどります。
目次
第1章 三本和彦とは ― 東京新聞の写真記者から自動車評論へ
辛口の自動車評論で知られた人物がいます。
三本和彦(みつもと かずひこ)です。
有限会社三信工房の代表を務めました。
テレビ、ラジオ、雑誌で長く活躍しました。
2022年7月16日、転移性肝がんのため東京都内で亡くなりました。
91歳でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | みつもと かずひこ |
| 肩書 | モータージャーナリスト |
| 主宰 | 有限会社 三信工房 代表 |
| 出身 | 東京都 |
| 没年 | 2022年7月16日(91歳)/転移性肝がん |
三本和彦の最初の職業は、自動車評論家ではありません。
報道カメラマンでした。
彼は國學院大學で経済学を学びます。
その後、東京写真大学(現在の東京工芸大学)の写真技術科を卒業しました。
そして1956年から1967年まで、東京新聞社の写真部記者を務めます。
ただ、三本和彦はカメラを構えるだけの記者ではありませんでした。
本来は別々の部門である「写真部」と「解説記事」を、兼任していたのです。
そして「これからの日本は自動車の時代を迎える」と主張します。
当時、日本にはまだ自動車が普及していません。
その時代に、週1回の自動車専門記事を、自ら確保して担当しました。
自家用車を持つ人が限られていた時代です。
三本和彦は、そのオーナーを片っ端から取材します。
クルマとオーナーの関係や、エピソードをまとめていきました。
当初は社内で「そんなもの誰が読むんだ」と反発を受けたといいます。
ところが読者の反響は大きく、最終的には紙面の半分を占めるメイン記事にまで発展しました。
| 東京新聞時代の自動車記事 | 内容 |
|---|---|
| 立場 | 写真部記者として「写真部」と「解説記事」を兼任 |
| 主張 | 「これからの日本は自動車の時代を迎える」 |
| 仕事 | 週1回の自動車専門記事を自ら確保して担当 |
| 取材対象 | 当時まだ少なかった自家用車のオーナー |
| 結果 | 当初は社内で反発も、反響が大きく紙面の半分のメイン記事に発展 |
この東京新聞の時代より前、学生のころに、三本和彦は生涯の親友と出会っています。
後に自動車雑誌『カーグラフィック』を創刊する、小林彰太郎(こばやし しょうたろう)です。
2人が知り合ったのは、アメリカ人に日本語を教えるアルバイトでした。
そのバイト代の使い途に、2人の個性が出ています。
小林彰太郎は、中古のオースチンを買いました。
三本和彦は、報道用カメラの「スピード・グラフィック」を買いました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出会い | 学生時代、アメリカ人に日本語を教えるアルバイト |
| バイト代の使い道(小林) | 中古のオースチンを購入 |
| バイト代の使い道(三本) | 報道用カメラ「スピード・グラフィック」を購入 |
| その後 | 1962年、小林が創刊した『カーグラフィック』で三本が写真を担当 |
1962年、小林彰太郎は二玄社から『カーグラフィック』を創刊します。
新車を紹介するだけでなく、クルマそのものを批評する。
日本に本格的な自動車評論を持ち込んだ雑誌でした。
三本和彦は、その創刊当初の写真撮影を担当します。
東京新聞の写真部記者でありながら、自動車の記事を書き、雑誌の写真も撮る。
三本和彦は、こうしてクルマの世界に深く入っていきました。
その三本和彦がテレビの司会者として全国に知られるのは、1977年からです。
ただ、そこに至る道のりは、平坦ではありませんでした。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 三本和彦 | 辛口で知られたモータージャーナリスト。2022年に91歳で逝去 |
| 出発点は写真 | 最初の職業は東京新聞の写真部記者(1956〜1967年) |
| 東京新聞の自動車記事 | 写真部と解説記事を兼任し、週1回の自動車記事を自ら担当 |
| 小林彰太郎 | 日本語教師のアルバイトで知り合った親友。『カーグラフィック』創刊者 |
| 1962年 | 小林が創刊した同誌の写真撮影を三本が担当 |
| 引用元・参照元 |
|---|
| 日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録) |
| 東京新聞「三本和彦さん死去 モータージャーナリスト」(2022年7月21日) |
| 自動車情報誌「ベストカー」ベストカーWeb「【訃報】三本和彦氏がご逝去されました」(2022年7月17日) |
| Wikipedia「三本和彦」 |
| Wikipedia「小林彰太郎」 |
| Wikipedia「カーグラフィック」 |
第2章 評論家になる前 ― 東京新聞退社と世界最長ラリー
三本和彦は、写真記者からすぐに評論家になったわけではありません。
間に、いくつもの異色の経験が挟まっています。
まず、東京新聞を辞めた経緯から見ていきます。
1967年10月、三本和彦は東京新聞社を退社します。
きっかけは、会社との対立でした。
東京新聞社は中日新聞社と合併し、社風が大きく変わります。
当時の三本和彦は、労働組合のトップを任されていました。
会社側との折り合いは、一段と悪化していきます。
最終的に三本和彦は、「以後5年間は写真関係の仕事をしない」という契約書を書かされ、新聞社を引退しました。
こうして、自動車分野のフリージャーナリストが誕生します。
しかし、しばらくは厳しい日々が続きました。
| 東京新聞退社の経緯 | 内容 |
|---|---|
| 時期 | 1967年10月 |
| 背景 | 中日新聞社との合併で社風が変化 |
| 三本の立場 | 労働組合のトップを任されていた |
| 退社の条件 | 「以後5年間は写真関係の仕事をしない」と契約書を書かされる |
そんな折、三本和彦に思わぬ話が舞い込みます。
「国外のラリーに参戦してみないか」という誘いでした。
参戦したのは、「ロンドン-シドニー・マラソン」という過酷な世界ラリーです。
英国から豪州まで、車と船を使って走り続けます。
期間は3週間に及びました。
三本和彦は、プロのラリードライバーとその助手の3人で挑みます。
想像を超える難関を、昼も夜も走り続けて突破しました。
そして、なんとか完走にこぎつけます。
ただし、惜しくもタイムアウトで入賞を逃しました。
この壮絶な体験は、後の運転技術の基礎になります。
実際にラリーを走ったという事実が、評論家としての信頼性を支えました。
この体験は、1冊の本にもなりました。
『世界最長ラリーに挑戦して』(二玄社)です。
もとは『カーグラフィック』に連載され、大きな反響を呼びました。
この記事は大宅壮一賞の最終選考にまで残ります。
「専門用語が多い」という理由で入賞は逃しました。
当時はそれだけ、自動車用語が世に馴染んでいなかったということです。
| ロンドン-シドニー・マラソン | 内容 |
|---|---|
| コース | 英国から豪州まで、車と船を使用 |
| 期間 | 約3週間 |
| 体制 | プロのラリードライバーと助手との3人 |
| 結果 | 完走。ただしタイムアウトで入賞を逃す |
| 記録 | 著書『世界最長ラリーに挑戦して』(二玄社)。大宅壮一賞の最終選考に残る |
その後、三本和彦は板金工場に入社します。
この工場は、一般の板金加工だけではありませんでした。
いすゞ自動車関係の受注や、モーターショーに出品する車も手掛けていました。
三本和彦は、ここで作り手の経験を積みます。
自動車の設計や仕組みだけではありません。
エンジンルームや室内のインテリアデザインにまで、知識を広げました。
つまり三本和彦は、クルマを「作る」「走らせる」「撮る」を、すべて経験した評論家でした。
| 三本和彦の異色の土台 | 内容 |
|---|---|
| 作る | 板金工場で、いすゞ車やモーターショー出品車の製作に関わる |
| 走らせる | 世界最長ラリー「ロンドン-シドニー・マラソン」を完走 |
| 撮る | 東京新聞の写真部記者、『カーグラフィック』の写真撮影 |
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 1967年10月退社 | 合併による社風の変化と会社との対立で東京新聞を退社 |
| 世界最長ラリー | ロンドン-シドニー・マラソンを完走、タイムアウトで入賞は逃す |
| 『世界最長ラリーに挑戦して』 | 体験を本にまとめ、大宅壮一賞の最終選考に残る |
| 板金工場 | いすゞ車やショー出品車を手掛け、作り手の知識を得る |
| 作る・走らせる・撮る | 3つすべてを経験した、異色の評論家だった |
| 引用元・参照元 |
|---|
| 日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録) |
| Wikipedia「三本和彦」 |
第3章 「新車情報」という“ゲリラ番組”
三本和彦の代名詞となった番組があります。
テレビ神奈川(tvk)の「新車情報」です。
放送開始は1977年7月6日でした。
この番組の成り立ちが、すでに異例でした。
1976年頃、テレビ神奈川は経営難に陥っていました。
当時の役員が三本和彦に、「予算をなるべくかけないで番組を作りたい」と相談します。
そこで三本和彦は、「新車発表会を番組にすればよい」と企画を持ち込みました。
これが「新車情報」の出発点です。
| 番組の成り立ち | 内容 |
|---|---|
| 放送局 | テレビ神奈川(tvk)/独立UHF局 |
| 当時の状況 | 1976年頃、tvkは経営難 |
| きっかけ | 役員が三本に「予算をかけずに番組を」と相談 |
| 三本の企画 | 「新車発表会を番組にすればよい」 |
ここで、ひとつの疑問がわきます。
なぜ、大手のキー局ではこの番組ができなかったのか、です。
理由は、スポンサーにありました。
キー局にとって、自動車メーカーはCMを打ってくれる最上得意客です。
その客を、番組で答えに窮するほど問い詰めることはできません。
だからテレビ神奈川は、三本和彦にこう条件を出します。
「スポンサーを自分で見つけてこい」というものでした。
悩んだ三本和彦が駆け込んだのが、曙ブレーキ工業の社長でした。
社長は「金は出すが、番組内容に口出しはしない」という約束で、音頭をとってくれます。
こうして、神奈川県に本社や事業所を構える部品メーカーを中心に、約40社のスポンサーが集まりました。
メーカー本体を叩けるよう、スポンサーは部品メーカーで固めたのです。
| なぜキー局ではできなかったか | 内容 |
|---|---|
| キー局の事情 | 自動車メーカーはCMを打つ最上得意客で、番組で問い詰められない |
| tvkの条件 | 「スポンサーは自分で見つけてこい」 |
| 協力者 | 曙ブレーキ工業の社長が「金は出すが口出ししない」と音頭 |
| スポンサー | 神奈川の部品メーカーを中心に約40社 |
この番組を、三本和彦は自ら評しています。
「いつでも他の番組に取って代えられる“ゲリラ番組”であり、進行や方式を大きく変えない“偉大なるマンネリ番組”である」。
しかし、その“ゲリラ番組”は強さを発揮します。
独立UHF局の番組でありながら、最大で全国14局にネットされました。
tvkの看板番組となり、放送期間は27年9ヶ月に及びます。
放送回数は1448回を数えました。
tvkの制作番組としては、歴代2位の長寿番組です。
| 新車情報のデータ | 内容 |
|---|---|
| 放送期間 | 1977年7月6日〜2005年4月3日 |
| 期間の長さ | 27年9ヶ月 |
| 放送回数 | 1448回(最終回が第1448回) |
| ネット局 | 最大で全国14局 |
| 三本の自評 | 「ゲリラ番組」「偉大なるマンネリ番組」 |
番組の中身も、徹底していました。
週1回、新車を1台スタジオに用意します。
そこに、その車の開発責任者が出演します。
事前に三本和彦が試乗したVTRが流れました。
試乗の舞台は、東名高速道路と「いつもの山坂道(やまさかみち)」です。
そのあと、スタジオで質疑応答に移ります。
三本和彦の質問は鋭く、開発者が返事に窮することも多くありました。
メーカーの担当者にとっては、抜き打ちテストさながらの緊張が続いたといいます。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 新車情報 | 1977年にtvkで開始。三本が企画を持ち込んだ |
| キー局では不可能 | メーカーが最大の広告主のため、問い詰める番組は作れない |
| スポンサー戦略 | 曙ブレーキら部品メーカー約40社で固め、メーカー本体を叩けるようにした |
| ゲリラ番組 | 三本自身の自評。それでも27年9ヶ月・1448回の長寿に |
| 抜き打ちテスト | 開発者を鋭く問い詰める質疑応答が名物だった |
| 引用元・参照元 |
|---|
| Wikipedia「新車情報」 |
| 日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録) |
| ネタとぴ「三本和彦氏追悼番組『クルマの過去・現在・未来』が本日29日(木)放送」(2022年12月) |
第4章 こぶしとメジャー ― 徹底したユーザー目線
「新車情報」には、忘れがたい名物がありました。
三本和彦による実測です。
数字を、その場で測って見せたのです。
まず、頭上の空間でした。
三本和彦は運転しながら、頭上のすき間を握り拳で測りました。
「頭上は拳でいくつ分」という具合です。
この測り方は、1990年代の中盤まで続きました。
背の高いミニバンが増えてきたため、その後はやらなくなっています。
荷室の計測も独特でした。
使ったのは、10センチごとにテープを巻いた1メートルの棒を2本です。
これでトランクの高さ、幅、奥行きを測ります。
地面から開口部までの高さも測りました。
容量は「ゴルフバッグいくつ分」という言い方で伝えています。
この棒は、インターネット上で「不躾棒(ぶしつけぼう)」と呼ばれました。
三本和彦本人も、番組終了後のDVDで「不躾棒とは、よく付けたもんだね」と笑っています。
| 三本流・実測の道具 | 内容 |
|---|---|
| 頭上空間 | 運転しながら握り拳で測定(1990年代中盤まで) |
| 荷室 | 10センチごとにテープを巻いた1mの棒2本で計測。通称「不躾棒」 |
| 容量の表現 | 「ゴルフバッグいくつ分」 |
| 室内騒音 | エコー電子の計測器で測定 |
三本は自分の体格も引き合いに出しました。
「私のような80キロの人間が座っても」という言い方を、よく使っています。
あくまで、実際に乗る人の感覚に立った評価でした。
細かいチェックも欠かしませんでした。
ハッチゲートを持つ車では、内側の取っ手が両側にあるかを必ず確認します。
ボンネットがダンパー式かどうかも見ました。
荷室にネットが付いているかも調べています。
ホンダ・フィットでは、そのネットに7000円かかるという話まで持ち出しました。
| 三本がよくチェックした点 | 内容 |
|---|---|
| ハッチゲート | 内側の閉扉用の取っ手が両側にあるか |
| ボンネット | ダンパー式かどうか |
| 荷室 | ラゲッジネットの有無(フィットでは7000円という話も) |
| 高級車の基準 | 室内騒音「62デシベル以上は高級車とは言わない」 |
番組には、決まり文句もありました。
オープニングの「いつもの様にVTRが撮ってございます」。
批評に入る前の「いつもながら不躾ではございますが」。
こうした口上も、視聴者に親しまれました。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 握り拳 | 頭上空間を運転しながら拳で測定した |
| 不躾棒 | 1mの棒2本で荷室を実測。ネットでこう呼ばれた |
| 80キロの人間 | 自分の体格を引き合いに、実際に乗る人の目線で評価 |
| 細部チェック | 取っ手・ボンネット・荷室ネットまで確認した |
| 口上 | 「VTRが撮ってございます」「不躾ではございますが」が名物 |
| 引用元・参照元 |
|---|
| Wikipedia「新車情報」 |
| 日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録) |
第5章 「三本節」 ― 毒舌の実例とその標的
三本和彦を語るうえで外せないのが、辛口の表現です。
これらは「三本節」と呼ばれました。
自動車メーカーやジャーナリズム関係者の間で、有名だったといいます。
まず、評論界に残る名言があります。
「羊の皮を被った狼」と「猫足」です。
「羊の皮を被った狼」が指すのは、プリンス・スカイラインGT(2代目 S5型)でした。
おとなしい外見に、高い性能を秘めた車という意味です。
「猫足」は、しなやかな足まわりを持つ多くのフランス車を指しました。
この2つは番組での発言ではありませんでしたが、自動車業界・評論界に残る名言として扱われています。
| 評論界に残る名言 | 指していたもの |
|---|---|
| 羊の皮を被った狼 | プリンス・スカイラインGT(2代目 S5型) |
| 猫足 | しなやかな足まわりの多くのフランス車 |
一方、「新車情報」の収録で飛び出した毒舌は、もっと容赦がありませんでした。
その多くは、デザインへの批判です。
そして、どの車を指したのかが分かっています。
「ダチョウの卵」は、三菱・ミラージュ(2代目 C10系)のスタイリングへの言葉です。
この型は、当時「エリマキトカゲ ミラージュ」とも呼ばれました。
「ゴムひもの緩んだパンツ」は、トヨタの2代目カムリと初代ビスタ(SV10系)を指しました。
そして記事タイトルにもした、「公衆便所のベンチレーター」です。
これはトヨタ・MR2(初代 AW系)への言葉でした。
正確には、右側リアクォーターパネルに付いたエアインテークダクトを指しています。
「稲荷の鳥居(いなりのとりい)」は、ホンダ・ストリーム(初代 RN1型)のテールランプのデザインへの言葉です。
「毒キノコのお化けみたいなの」は、SUVなどに見られる片側だけの補助フェンダーミラーを指しました。
| 「三本節」と、その標的 | 指していたもの |
|---|---|
| ダチョウの卵 | 三菱・ミラージュ(2代目 C10系)のスタイリング |
| ゴムひもの緩んだパンツ | トヨタ・2代目カムリ&初代ビスタ(SV10系)のスタイリング |
| 公衆便所のベンチレーター | トヨタ・MR2(初代 AW系)右リアクォーターのエアインテークダクト |
| 稲荷の鳥居 | ホンダ・ストリーム(初代 RN1型)のテールランプ |
| 毒キノコのお化けみたいなの | SUV等の片側だけの補助フェンダーミラー |
誤解されやすい表現も、ひとつあります。
「気の狂ったアヒル」です。
これはBMWの328Ciクーペを取り上げた回で出ました。
ただし、BMWの乗り心地を貶した言葉ではありません。
ダンパーを長年替えずに乗っている車の、フワついた乗り心地に対して言ったものです。
三本和彦はむしろ、BMWの乗り心地は信じられないほど良いと語っていました。
毒舌は、ときに役所まで動かしました。
三本和彦は、高齢運転者標識(紅葉マーク)を「枯葉マーク」と呼びます。
これは紅葉マークを蔑称したものでした。
放送後、三本和彦は警視庁から呼び出しを受けています。
その後、多くの自動車雑誌も「落葉マーク」と呼ぶようになりました。
| 役所を動かした毒舌 | 内容 |
|---|---|
| 枯葉マーク | 高齢運転者標識(紅葉マーク)を蔑称した表現 |
| 反応 | 放送後、警視庁から呼び出しを受けた |
| その後 | 多くの自動車雑誌も「落葉マーク」と呼ぶように |
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 三本節 | 辛口の表現の総称。メーカーやジャーナリズム関係者に知られた |
| 名言 | 「羊の皮を被った狼」はスカイラインGT、「猫足」はフランス車 |
| 公衆便所のベンチレーター | 初代MR2の右リアクォーターのエアインテークダクト |
| 気の狂ったアヒル | BMW批判ではなく、ダンパーを替えない車のフワつきを指した |
| 枯葉マーク | 紅葉マークの蔑称。放送後に警視庁から呼び出しを受けた |
| 引用元・参照元 |
|---|
| Wikipedia「三本和彦」(各表現の対象車に関する脚注) |
第6章 業界を動かした評論家 ―「三本対策」と知られざる仕事
三本和彦は、評論するだけの人ではありませんでした。
実際に、クルマそのものを変えています。
象徴的なのが、ハッチバック車のリアゲートの取っ手です。
三本和彦は番組で、「ハッチバック車のリアゲートには、閉めるための取っ手が必要だ」と訴え続けました。
この働きかけにより、日本車のリアゲートに閉扉用の取っ手が装備された、といわれています。
自動車雑誌の中には、これを「三本対策」と呼ぶものもありました。
第4章で触れたとおり、三本和彦は番組でも毎回、取っ手が両側にあるかを確認していました。
その地道な指摘が、形になったということです。
| 三本が実際に変えたもの | 内容 |
|---|---|
| 訴え | 「ハッチバック車のリアゲートに閉扉用の取っ手が必要」 |
| 結果 | 日本車のリアゲートに取っ手が装備された(といわれている) |
| 呼び名 | 自動車雑誌は「三本対策」と呼んだ |
あまり知られていない仕事もあります。
カメラメーカーのニコンとの関わりです。
日本光学(現在のニコン)は、ニコンEM以来、デザイナーのジョルジェット・ジウジアーロにデザインを仰いでいます。
この縁について、三本和彦は自身のコラムで、自分が紹介したものだと記しています。
写真家でもあった三本和彦らしい、意外な裏方の仕事でした。
業界の仕組みづくりにも関わっています。
1991年、三本和彦は日本自動車研究者ジャーナリスト会議(RJC)の設立に加わりました。
山口京一、星島浩らとともに立ち上げた団体です。
カー・オブ・ザ・イヤーの選考をめぐる接待などを問題視し、公平で公正な評価を目指しました。
知られざる仕事は、もうひとつあります。
シートの開発です。
三本和彦が乗り心地について論じたことがきっかけで、ある会社とシートを共同研究します。
そこから「居眠り警告装置」の開発にもつながりました。
| 三本の知られざる仕事 | 内容 |
|---|---|
| ニコンとジウジアーロ | 両者の縁は自分の紹介だと、三本本人がコラムに記している |
| RJC設立(1991年) | 山口京一・星島浩らと設立。公平な車の評価を目指した |
| シート開発 | 乗り心地の研究から、居眠り警告装置の開発にもつながった |
晩年も、三本和彦は語ることをやめませんでした。
著書で、日本の自動車メーカーや交通行政に、苦言と提言を続けます。
『言わずに死ねるか!日本車への遺言』(講談社)。
『三本和彦、ニッポンの自動車を叱る』(二玄社)。
タイトルそのものが、三本和彦の姿勢を表しています。
| この章のまとめ | |
|---|---|
| 三本対策 | リアゲートの取っ手を訴え、日本車に装備されたといわれる |
| ニコンの縁 | ジウジアーロ起用は自分の紹介だと本人が記している |
| RJC設立 | 1991年、公平な車の評価を目指す団体の設立に参加 |
| 居眠り警告装置 | シートの共同研究から開発につながった |
| 晩年の著書 | メーカーや交通行政への苦言と提言を続けた |
| 引用元・参照元 |
|---|
| Wikipedia「三本和彦」(リアゲートの取っ手、ジウジアーロ起用に関する記述) |
| 日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録) |
| 講談社『言わずに死ねるか!日本車への遺言』(三本和彦著、2010年11月) |
第7章 27年の幕引きと晩年
27年9ヶ月続いた「新車情報」は、2005年に幕を下ろします。
この降板の理由は、二層構造になっていました。
表向きの理由と、本当の理由が違ったのです。
表向きの理由は、年齢でした。
放送第1444回、アウディ・A3スポーツバックを取り上げた回でのことです。
三本和彦は「あと4回で引退する」と、自ら勇退を発表します。
このとき、こうコメントしました。
「僕より年上なのは、スズキの会長だけになってしまいました」。
しかし、本当の理由は別にありました。
テレビ神奈川との確執です。
番組終了後、三本和彦は自身のコラム「新車情報よもやま話」で、降板の本当の理由を明かしました。
tvk側の番組製作に対する、配慮のなさへの失望でした。
そこで三本和彦は、こう書き残しています。
「私の心づもりでは、30年は新車情報を続けてもいいかなとは思っていた」。
「しかし、こんな雰囲気では、とても続けられないという思いが強くなった」。
続ける意志はあったのです。
それを折ったのが、局の姿勢でした。
| 降板の二層構造 | 内容 |
|---|---|
| 表向きの理由 | 年齢。第1444回で「あと4回で引退」と勇退発表 |
| そのコメント | 「年上なのはスズキの会長だけになってしまった」 |
| 本当の理由 | テレビ神奈川との確執。番組製作への配慮のなさに失望 |
| 本人の言葉 | 「30年は続けてもいいかなと思っていた。しかし、こんな雰囲気では続けられない」 |
そして2005年4月3日、放送第1448回「新車情報大賞2005」をもって、番組は終了しました。
日本初の本格的な自動車情報番組が、歴史に幕を下ろした瞬間です。
愛車にも、三本和彦の人柄がにじみます。
「おぎやはぎの愛車遍歴」で、三本和彦は自分の愛車遍歴を語っています。
最初の1台は、1948年、17歳のときのたま電気自動車でした。
その後、ダットサン トラック、オオタ KC、シトロエン 2CVと続きます。
有名なスバル360は、その後、1958年の愛車でした。
ディーゼル好きでも知られ、カリーナのディーゼルなどを愛用しました。
ラリー参戦用に、三菱・ストラーダも所有しています。
そして晩年の愛車が、フォルクスワーゲン・ポロでした。
ただし本人は、愛車遍歴について「記憶違いもあり、定かではない」とも語っています。
| 三本和彦の愛車(抜粋) | 年・備考 |
|---|---|
| たま電気自動車 | 1948年・最初の1台 |
| ダットサン トラック | 1950年 |
| シトロエン 2CV | 1957年 |
| スバル 360 | 1958年(最初の愛車ではない) |
| 三菱・ストラーダ | ラリー参戦用として所有 |
| フォルクスワーゲン・ポロ | 晩年の愛車 |
評論の根っこには、ひとつの言葉がありました。
三本和彦は、ベストカーで「金口木舌(きんこうぼくぜつ)」という連載を持っていました。
これは、優れた言論で社会を導く人を例える言葉です。
色紙には、「金口木舌」と「一期一会」と書いていました。
2012年、三本和彦は日本自動車殿堂入りを果たします。
そして2022年7月16日、91歳でこの世を去りました。

