プロローグ:「妙に静かな表彰台」
みなさん、こんにちは
今回のお話は、1966年に起きたある出来事についてです
ル・マン24時間レース
フランス、サルト・サーキットで毎年行われる
世界最古にして最も過酷な耐久レースの一つです
1966年6月、ル・マン
3台のフォードGT40が、ヘッドライトを点灯したまま
雨のメインストレートを駆け抜け
相次いでチェッカーフラッグを受けました
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フォード社にとって、ル・マン初優勝
それも、1位、2位、3位の表彰台独占
1960年から1965年までル・マンは6年連続でフェラーリの庭でした
そのフェラーリをフォードが完膚なきまでに叩き潰した瞬間でした
ところが、表彰台では
勝ったはずの男たちは妙に静かでした
優勝者として中央に立ったのは
ニュージーランド人ドライバー、ブルース・マクラーレン、28歳
同じく2号車のコドライバー、クリス・エイモン、22歳
人生最大の勝利を手にしたばかりの二人なのに
ぎこちない表情でカップを受け取りました
そして、もう一人
2位の表彰台に立つ男
ケン・マイルズ、47歳
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イギリス生まれ、当時世界一のテストドライバーと言われた男
ケン・マイルズは、うつむいたまま
ほとんど何も語りませんでした
ケン・マイルズは、このレースの2か月後
この世を去ることになります
ル・マン史上最も僅差のフィニッシュ
距離にして20メートル
その裏で何が起きていたのか
これがこの動画のテーマです
第1章:1963年のある侮辱から始まった物語
話の発端は1966年ではなく
3年前の1963年です
ヘンリー・フォード2世
フォード・モーター・カンパニーの会長兼CEOとして
当時、世界最大級の自動車会社を率いていた人物です
そのヘンリー・フォード2世が
イタリアの高級スポーツカー・メーカー、フェラーリの買収を決断します
当時のフェラーリはル・マン24時間で6勝、F1でも常勝
しかし経営的には厳しく、フォードの約1000万ドルでの買収提案に
22日間の交渉を重ね、契約書はほぼ完成しました
ところが、最後の最後で
創業者エンツォ・フェラーリは契約書にサインを拒みました
理由は、契約書の中の、ある一つの条項
「一定額以上のレース予算については、フォードの承認を必要とする」
エンツォ・フェラーリにとって、これは絶対に飲めない条件でした
レース活動の最終決定権をアメリカの企業に渡すなど
絶対にあり得ないことでした
エンツォ・フェラーリは交渉を打ち切るだけでは済ませず
フォード社のことをこう罵ったと伝えられています
「醜い会社が、醜い工場で、醜い車を作っている」
ヘンリー・フォード2世個人に対しても
「お前の祖父の方が、ずっとマシな人間だった」
と言ったとされます
これがヘンリー・フォード2世のプライドを完全に砕きました
彼は宣言します
いわば「戦争宣言」です
「分かった、あいつがそうしたいなら、サーキットで、奴の尻を叩きのめしてやる」
宣言を受けて、フォード社は
フェラーリを倒すためだけの車を作ることを決断しました
それが、後に伝説となる「フォードGT40」です
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しかし、開発は難航しました
1964年のル・マンではフォードGT40は3台全車リタイア
1965年は6台投入して全車リタイア
二年連続の惨敗を受けて
フォードはアメリカの自動車エンジニア
キャロル・シェルビーをプロジェクトに引き入れます
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キャロル・シェルビーは
自身も1959年のル・マン優勝経験を持つ元ドライバーでした
そのキャロル・シェルビーが
開発と実戦の両方を任せられる人物として
一人の男を呼び寄せます
それがこの動画の主人公、ケン・マイルズです
47歳、イギリス生まれ
第二次世界大戦中はイギリス陸軍の戦車兵として従軍
戦後にアメリカへ移住し、レーサーとしてのキャリアを築きました
ケン・マイルズの特異性は
テストドライバーであり、開発エンジニアであり
同時に、本戦の主力ドライバーでもあった、という点です
自分で車の弱点を見つけ、自分で改良案を出し
自分でその車を実戦で走らせる
当時としても、極めて稀有な存在でした
ぶっきらぼうで、口が悪く、上司の機嫌を取らない
しかしハンドルを握れば、誰よりも速く
誰よりも正確に車を仕上げる男でした
ケン・マイルズの貢献によって、フォードGT40は劇的に進化します
1966年、デイトナ24時間でケン・マイルズがドライバーとして優勝
セブリング12時間でもケン・マイルズが優勝
そして6月、ル・マン24時間
世界三大耐久レースの三冠
史上、誰一人として一年で達成したことがない記録に
ケン・マイルズはあと一勝のところまで来ていました
第2章:「20メートルの闇」1966年6月雨のサルトで何が起きたのか
1966年6月18日、土曜日、午後4時
ル・マン24時間レースがスタート
レースは予想通りフォードのペースで進みました
日曜の朝には、フェラーリ勢の優勝争いはほぼ消滅
実質的に、フォード勢の独占レースとなりました
レースの大部分の時間、首位を走ったのは3号車のダン・ガーニー
日曜の朝10時、そのダン・ガーニーの車がエンジントラブルでリタイア
代わりに首位に立ったのが
ケン・マイルズの1号車でした
2位を走るのはブルース・マクラーレンの2号車
3位は、ロニー・バックナムの5号車
3台ともフォードGT40 MkII
決勝最終局面、午後2時頃から、サーキットには雨が降り始めました
路面は濡れ、視界は悪く
当時のレーシングタイヤは現代とは比べものにならないほど雨に弱かった
残り2時間
ピットではフォード・モータースポーツ部門の責任者
レオ・ビーブとキャロル・シェルビーが話し合っていました
レオ・ビーブ
議題は一つ
「フィニッシュの絵をどう作るか」でした
レオ・ビーブが思いついた構図
それは3台のフォードGT40にフォーメーションを組ませてゴールさせる、というものでした
ここで、一つ素朴な疑問が浮かびます
単純に1位、2位、3位を独占するだけでも
フェラーリへの完璧な復讐になるはずでした
すでにフェラーリの脅威は存在しない状態でした
なぜフォードは、わざわざ「3台同時ゴール」という
複雑で危険な構図にこだわったのでしょうか
レオ・ビーブの本職はマーケティングでした
彼の頭の中にあったのは写真のことです
ばらばらにゴールする1-2-3フィニッシュは
1枚の写真にはまとまらない
3台が連なってゴールすれば、3台すべてが1枚の写真に収まる
雑誌の表紙にも、新聞の一面にも使える
まさに歴史的な絵になる
3年前の侮辱への完全なる復讐として
ル・マンの観衆と、世界中のレースファンの前で
「フェラーリを完全に踏みにじる」演出が必要だったのかもしれません
「ただ勝つ」だけでは足りなかった
そこでレオ・ビーブはレース主催者ACOに問い合わせました
「フォードを3台並べて、同着でフィニッシュさせていいか」
ACOからの最初の回答は「問題なし」でした
ただし、その時点で
首位のケン・マイルズは大きくリードしていました
347周目に入った時点で
ケン・マイルズは、後続のブルース・マクラーレンに対して
34秒のリードを保っていました
普通に走れば、ケン・マイルズが単独で勝ってしまう
そこでフォード首脳は、両ドライバーへ伝達しました
ケン・マイルズに対しては
「ペースを落とせ、後続の2号車を待て、同着なら、両方とも優勝者として記録される」
ブルース・マクラーレンにも同様の指示が伝えられました
ケン・マイルズはこの指示を聞いて苛立ちを隠しませんでした
彼にとって、このレースは三冠への最後の一勝だったのです
メカニックのチャーリー・アガピューは
ケン・マイルズが車から降りて、こう言うのを聞いたと証言しています
「奴らは、俺を勝たせたくないらしい、マクラーレン/エイモン車を勝たせたいんだ」
マイルズは「完璧な同着」の技術的困難さを考えたのかもしれません
しかし、彼はこうも言ったと伝えられています
「私はフォード・モーター・カンパニーのために働いている、会社が私に勝てと言えば、勝とう、会社が湖に飛び込めと言えば、飛び込もう」
皮肉と諦めが入り混じった、職業人としての言葉でした
ケン・マイルズはシェルビーの指示通り
1周あたり4分00秒のペースに落とします
通常の彼のペース、3分54秒よりも6秒遅いペースです
一方、ブルース・マクラーレンは
依然として3分54秒のペースで走り続けました
351周目
ケン・マイルズの1号車と
ブルース・マクラーレンの2号車が
ついに並びました
そして、ここで物語は、第二の局面に入ります
レース終盤、ACOがフォード首脳に対して
最初の回答を撤回したのです
次のような内容でした
先ほどの回答を訂正する
規則によれば、同一周回で同時にゴールした場合
スタート位置の差を考慮することになっている
ブルース・マクラーレンの2号車は
ケン・マイルズの1号車より約14メートル後ろからスタートしている
したがって、同着でゴールした場合
より長い距離を走った2号車が勝者となる
真の意味での同着
両者ともに優勝者という結末は
規則上あり得ない
ル・マンのスタートはグリッド方式で、車は千鳥状に配置されます
1号車は2番グリッド、2号車は4番グリッド
両車には約14メートルの距離がありました
ACOからの訂正を聞いたフォード首脳の選択肢は
論理的になされるとすれば、次のいずれかでした
選択肢1
ケン・マイルズに「単独で先行してゴールしろ」と伝える
彼はもともと34秒もリードしていたのですから、優勝は確実でした
選択肢2
ブルース・マクラーレンに「絶対に先にゴールするな」と伝える
そうすれば、僅差ながらケン・マイルズの優勝となったはずです
ところが、フォード首脳が下した判断はそのいずれでもありませんでした
ル・マン史上最も議論を呼ぶ判断が、このとき下されます
「ドライバー二人には何も伝えるな」
レオ・ビーブは、ACOからの規則変更を
ドライバーには伝達しませんでした
ケン・マイルズもブルース・マクラーレンも
「同着で両方とも勝者になる」
という指示の元に走り続けます
なぜフォード首脳は伝えなかったのか
60年以上経った今も、誰にも本当のところは分かりません
レオ・ビーブ自身は、後年こう語っています
「私たちが望んだのは、こういう結末ではなかった、抗議する方法はないのか?」
ちょっと何言ってるのかわかりませんね
いずれにしても、すべては遅すぎました
最終ラップ
雨のサルト・サーキットを
1号車と2号車がほぼ並んで走り抜けます
その後方から、ハッチャーソンの5号車も追い付こうとしています
5号車は数周回遅れていますが
間に挟まるライバルは1台もないので
形としては3台ほぼ同時の1・2・3フィニッシュが実現できそうです
3台すべてがヘッドライトを点灯し
歴史的・決定的な構図が形作られていきます
ブルース・マクラーレンは
コドライバーのクリス・エイモンにこう告げていたと言われています
「フォードは写真を撮りたいらしい」
クリス・エイモンが訊きました
「で、誰が勝つことになっているんだ?」
ブルース・マクラーレンは答えました
「それは分からない、だが俺は、負けるつもりはない」
そして、最終ストレート
最終ストレートに入った時点では
ケン・マイルズの1号車がわずかに前に出ていました
ところが、その瞬間
ケン・マイルズはアクセルを緩めたのです
「同着でゴールしろ」
という指示に忠実だったのかもしれません
ところが、その一瞬の減速の隙に
ブルース・マクラーレンの2号車が加速して前に出ました
「俺は負けるつもりはない」と決めていた男です
全力で走る理由は、マクラーレンにはあったのです
ケン・マイルズは異変に気づき、再びアクセルを踏みました
しかし、すでに遅すぎた
チェッカーフラッグ
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先にゴールラインを越えたのはブルース・マクラーレンの2号車
ケン・マイルズの1号車は、その6メートル後ろ、コンマ5秒の遅れでした
そのすぐ後方から
ディック・ハッチャーソンの5号車もチェッカーを受けました
3台のフォードGT40が、ヘッドライトを点灯したまま
雨のメインストレートを連なって駆け抜けた瞬間です
文字通りの「3台横並び」ではなかったものの
フォードのマーケティング担当者が望んだ通りの
完璧な「フォトフィニッシュ」でした
しかし、結果は、ブルース・マクラーレンが1位
実況のアナウンサーも、ピット内のフォード関係者も
当初は1号車ケン・マイルズの優勝だと思っていました
最初にメインストレートに入ってきたのがマイルズだったからでしょう
ドライバーたちが表彰台へ向かう直前
ACOの公式記録が発表されます
「優勝、2号車、ブルース・マクラーレン/クリス・エイモン組」
理由は、規則通りでした
公式記録上の走行距離は
2号車が4843.090キロメートル、1号車が4843.070キロメートル。
その差、20メートル
6メートルの差で2号車が先にゴールし
なおかつ、スタートグリッドで14メートル後方からスタートしているので
6+14=20メートル差、と言うわけです
ル・マン史上最も僅差のフィニッシュとなりました
第3章:「最後の2か月」1966年8月17日リバーサイドレース終了後
ロサンゼルス・タイムズ紙の記者ボブ・トーマスに対し
ケン・マイルズは、こう語りました
「私は、自分が勝ったと考えている、だが、技術的な理由で2位にされた、この責任は、フィニッシュを同着にすると決めたフォードの判断にあると感じている、私は『そんな風にうまくいかない』と彼らに言ったのだが」一方で、マイルズはこう付け加えました
「お願いだから、私が言ったことを慎重に書いてほしい、私は彼らのために働いている、彼らは、私によくしてくれた」
口は悪いが、最後まで組織人だった男の、精一杯の抗議でした
キャロル・シェルビーも、後年こう述べています
「ケン・マイルズは、明らかにレースをリードしていた、デイトナ、セブリング、そしてル・マンを同年に制した、史上唯一の男になるはずだった、彼が勝つべきだった」
しかし、ケン・マイルズにはもう次のチャンスはありませんでした
レースから2か月後
1966年8月17日、水曜日
カリフォルニア州、リバーサイド・インターナショナル・レースウェイ
彼はフォードの新しいプロトタイプ
「Jカー」のテストを行っていました
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このJカーは、翌年「フォードMk IV」として正式デビューし
1967年のセブリング、ル・マンを制覇することになります
ケン・マイルズが乗っていたのは
未来のル・マン優勝マシンの試作機でした
朝からテストは順調に進んでいました
最終ラップ
ロング・バックストレッチを
ケン・マイルズは時速約280キロで走ります
ストレートエンドの直前、車は減速を始めます
時速約160キロまで落ちた、その時
ケン・マイルズのJカーは突然コントロールを失いました
コースのインサイドへスピン
高い土手を乗り越えて転倒
車体は何度も回転し、激しく炎上しました
ケン・マイルズは車外に投げ出されていました
47歳、即死でした
事故の原因は最後まで完全には特定されませんでした
複数の要因が重なった可能性が高い、というのが現在の見解です
ケン・マイルズの息子、ピーター・マイルズは当時15歳でした
父の事故を現場で目撃したと言われています
ピーター・マイルズは2019年のインタビューで、こう語っています
「最後にル・マンへ行ったのは、1965年に父と一緒に行った時です、それ以来、私はル・マンへ行ったことがありません」
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ケン・マイルズの名前は、その後長い間忘れられていました
ル・マンの公式記録に残るのは、「2位」という事実だけでした
しかし2001年
事故から35年が経ったその年
ケン・マイルズはアメリカ・モータースポーツ殿堂入りを果たします
そして2019年
映画『フォードvsフェラーリ』が公開され
クリスチャン・ベール演じるケン・マイルズの姿が
世界中の人々の心に残ることになりました
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映画では、レオ・ビービが悪役として描かれていますが
彼を直接知る人々は
「マーケティングに長けた、尊敬すべき人物だった」
と証言しています
誰が悪かったのか、という問いには、簡単な答えはありません
レオ・ビーブは、規則変更を知った後でさえ、ドライバーには伝えませんでした
キャロル・シェルビーは、彼のその判断を止めませんでした
ケン・マイルズは、会社員として、命令に従いました
ブルース・マクラーレンは、与えられた状況の中で、勝てる方法を選びました
ACOは、規則通りに裁定を下しました
残念に思う点はあるものの
誰一人、明確な悪人はいない
しかし、結果として
最も称えられるべきだった男が2位になり
2か月後に世を去りました
巨大な組織の論理と、そこで働く一人の人間
1966年6月、ル・マンの20メートルは
モータースポーツ史において
最も静かで、最も重い距離なのかもしれません


