土屋圭市と高橋国光の50年|ドリキン誕生から息子の名前までの師弟物語

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第1章:金網を切った16歳

1972年のことです。長野県の16歳が、ペンチで富士スピードウェイの金網を切って中に入りました。

少年の名前は 土屋圭市 と言います。後にドリキンと呼ばれる男です。

入場料を払う金はありません。仲間と10台ほどの原付で、長野県から静岡県の富士スピードウェイまで 8時間半 かけて辿り着いたばかりでした。みな顔を真っ黒にしていました。

会いたい人は、ただ一人。 高橋国光 、当時のトップドライバーです。

土屋は子供の頃から父親と一緒にテレビでレースを見ていました。レースでドリフトを多用する高橋の走りに憧れ、部屋には高橋のポスターを貼りつめていました。

1972年・富士スピードウェイで起きたこと内容
少年の年齢16歳の土屋圭市
出発地・所要時間長野県から原付で 8時間半
人数仲間10人ほどで自走
侵入方法ペンチで金網を切って侵入
目的高橋国光のレース観戦

ようやく日産のガレージ前に辿り着きました。顔を真っ黒にしたボロボロの少年たちを見て、ベテランドライバーの一人がつぶやくのが聞こえました。

「汚ねぇガキがいるから見るな」

その時、ただ一人だけかまわず歩み寄ってきた男がいました。それが 高橋国光 でした。

「僕たち、どうしたの?」

高橋は土屋が差し出した紙の裏に、ボールペンでサインしてくれました。後年、土屋はそれが 領収書の裏 だったと明かしています。土屋は手を震わせながら、その紙を受け取ったといいます。

運命の出会い詳細
他のドライバーの反応汚れた少年を相手にせず
国光の行動ただ一人歩み寄ってきた
サインを書いた紙領収書の裏
筆記具ボールペン
土屋の様子手を震わせながら受け取った

土屋はそのサインを一生の宝物にします。

そして心に誓いました。

「俺はあの人の舞台に行きたい」

その日、長野県の16歳の人生が決まりました。20年後に憧れの高橋国光とコンビを組み、ル・マン24時間でクラス優勝を勝ち取り、ドリキンと呼ばれることになる男の物語は、この一枚のサインから始まりました。

引用元・参照元 ベストカーWeb『ありがとう国さん!! 愛弟子「圭ちゃん」が語る高橋国光の生き方と教え』(2022年5月9日)、jp.motorsport.com『国さん、ありがとう。長谷見、土屋が亡き高橋国光ゆかりのGT-Rをドライブ』(2022年12月4日)、Wikipedia『土屋圭市』、GAZOO(2025年3月18日)、土屋圭市オフィシャルサイト『BIOGRAPHY』

第2章:「俺は高橋国光になる」

富士スピードウェイから長野に帰った16歳は、心に1つの目標を持ちました。

「俺は高橋国光になる」

18歳で免許を取った土屋は、すぐにハコスカを購入します。本当はスカイライン2000GT-Rが欲しかったものの、お金が足りませんでした。手に入ったのは2000GTです。土屋はバンパーとグリルを外し、オーバーフェンダーを付け、 GT-Rもどき に改造しました。

そして長野県の碓氷峠などで「走り屋」として腕を磨きます。本人いわく「1週間に10日走る」ほどの走り込みでした。

走り屋時代の土屋圭市内容
免許取得18歳
愛車ハコスカ2000GT
改造GT-Rもどき仕様
主戦場碓氷峠などの峠道
走り込みの量「1週間に10日走る」

1977年、土屋は富士フレッシュマンレースでデビューします。マシンは 解体屋で買った5万円のB110サニー でした。

しかし現実は厳しいものでした。素人チューンのエンジンでは、マシン性能の差を埋められません。1978年は第6戦の3位表彰台が精一杯です。1979年も成績は振るわず、入賞かリタイアの繰り返しでした。

転機は、富士フレッシュマンレースの強豪チーム・ 倉田自動車 でテストを受けた時に訪れます。好結果を残した土屋は、倉田自動車チューンのエンジンを手に入れました。後に倉田自動車のドライバーとなった土屋は、水を得た魚のように勝ち始めます。

1982年の第2戦で初優勝を飾りました。レースデビューから足かけ6年で辿り着いた勝利です。

そして1984年、富士フレッシュマンレースのAE86クラスで、土屋は伝説の走りを見せます。 アドバンキャロット倉田トレノ開幕6連勝 を達成しました。2位に 10〜20秒の大差 をつけて勝つのが当たり前でした。混走する別クラスの スカイラインRSターボ を追い回すほどの速さです。

1984年・伝説のシーズン内容
マシンアドバンキャロット倉田トレノ(AE86)
戦績富士フレッシュマンレースで 開幕6連勝
勝ち方2位に 10〜20秒の大差
エピソード別クラスの スカイラインRSターボを追い回した

この年、雨の富士フレッシュマンレースで、AE86で100Rをドリフトで駆け抜ける土屋の姿が話題になります。後に ドリキン (ドリフトキング)の異名は、ここから生まれたと言われます。

シリーズチャンピオンを獲得した土屋には、ヨコハマタイヤとの専属契約が舞い込みます。翌1985年、全日本ツーリングカー選手権(グループA)への ステップアップ が決まりました。

「シリーズチャンピオンを獲ったら次のレースカーを買ってやる」。土屋は倉田自動車と坂東商会のサポートを受けながら、目標を追いかけて走り続けました。

レースデビューから足かけ8年、長野県の元走り屋は、ついに プロのレーシングドライバー となりました。

引用元・参照元 ベストカーWeb『ありがとう国さん!! 愛弟子「圭ちゃん」が語る高橋国光の生き方と教え』(2022年5月9日)、GAZOO(2025年3月18日)、Wikipedia『土屋圭市』、車知楽『ドリフトキング土屋圭市物語』、土屋圭市オフィシャルサイト『BIOGRAPHY』

第3章:神様の隣に座った日

1992年、土屋圭市はチーム・タイサンのオーナー、 千葉泰常 監督から、思いがけない話を聞かされます。

「来年は国光と組んでもらう」

土屋は信じませんでした。

「最初にその話を聞いたとき、また千葉さんがデカイことを言っちゃって……と思ってまったく信用できなかった。あんな神様みたいな人が、俺のような小僧と組んでくれるわけがない、とね」

しかし話は本当でした。1991年からタイサンで参戦していた STP TAISAN GT-R のパートナーは、高橋健二(同姓別人)から、土屋が16歳の頃から憧れ続けた 高橋国光 へと替わっていました。

1992年・コンビ結成内容
告げた人物チームオーナー 千葉泰常監督
言葉「来年は国光と組んでもらう」
土屋の反応「神様みたいな人が小僧と組むわけない」
パートナー交代高橋健二 → 高橋国光
マシンSTP TAISAN GT-R

国光と対面した時、土屋はうまく振る舞えませんでした。

「直立不動になり、こちらから声を掛けることすらできなかった」

ところが、隣に座った神様は、土屋の予想を裏切りました。

「国さんはとにかく優しくて、何でも俺にやらせてくれた。セッティングやタイヤのテストまで『圭ちゃんの好きなようにやっていいよ』と」

ナンバー1のはずの国光が、ナンバー2の土屋にすべてを任せました。これは当時のチームでは異例のことでした。

「ナンバー2のドライバーが新品のタイヤを履くなんて絶対になかったし、予選も俺に行かせてくれた」

タイサンGT-Rは、星野一義のカルソニック・スカイライン、長谷見昌弘のリーボック・スカイラインらと戦うことになります。1989年から本格化したグループAは、すでにトップドライバーが揃った戦場でした。

そこで土屋は思い知ります。

「グループAでGT-Rに乗ってから、『プロっていうのはこういう人たちのことを言うんだ』と悟った。それまでにもAE86やシビック、フォード・シエラでグループAに参戦していたけど、マシンをぶつけて相手を飛ばすなんて当たり前だった。だけど、R32では当たることはあっても、相手を弾き飛ばすというのは1回もなかった」

「星野一義さんや長谷見昌弘さん、鈴木利男さんと一緒に走ってみて、『本当にこの人たちはスゲーな』と」

グループAという戦場戦った相手
星野一義カルソニック・スカイライン
長谷見昌弘リーボック・スカイライン
鈴木利男グループAのトップドライバー
共通点クリーンレースが当たり前

1992年、JTC(全日本ツーリングカー選手権)第3戦・SUGO 300kmレース。土屋には、強い思いがありました。

「オレが国さんをグループAの表彰台に上げる!」と決めたレースです。

土屋は走り、コンビは3位でフィニッシュしました。1992年シーズン、初の表彰台です。この姿はオートスポーツ誌の表紙を飾りました。

そしてグループAの最終年となった1993年、第2戦オートポリスで、 高橋国光・土屋圭市組のグループA初勝利 が訪れます。コンビが組んだ2年間で挙げた、唯一の勝利でした。

しかしファンが見ていたのは順位ではありません。アドバンカラーのSTPタイサンGT-Rが、カルソニックを追い、長谷見と争う姿そのものでした。「国さん」と「ドリキン」、ふたりの走りに、サーキットは沸き続けました。

国光・土屋コンビの軌跡内容
1992年JTC第3戦 菅生3位表彰台(シーズン初)
1993年第2戦 オートポリスコンビ唯一の勝利
グループA2年間1勝
ファンが見ていたもの順位以上に ふたりの走り

引用元・参照元 AUTO MESSE WEB『ドリキン土屋圭市にとって特別なGT-R! 高橋国光さんとの出会いが人生を変えた』(2022年6月11日)、clicccar.com『国さんを表彰台に上げたい!土屋圭市の願いが叶った日【高橋国光さんを偲んで】』(2022年12月3日)、Wikipedia『土屋圭市』、NostalgicHero/NOSWEB『高橋国光と土屋圭市。アドバンカラーをまとったGT-R|STP タイサン GT-R』

第4章:ル・マンで泣いた朝

 

1994年、土屋圭市は初めてル・マン24時間に参戦します。チーム国光、ホンダNSX。パートナーは高橋国光と飯田章でした。

マシンは満身創痍でした。 ドライブシャフトを4回交換 し、トランスミッションもクラッチも壊れかけていました。

最終スティントに向かう前、国光は土屋に告げます。

「最後は圭ちゃん、やって。とにかく一回はル・マンのゴールを経験してほしいんだ。いいね」

土屋はゴールを駆け抜けました。総合 19位 完走。ピットに戻ると、ホンダの橋本健と抱き合って声を上げて泣きました。

「帰ってこられないと思った。ドライブシャフト1本で走った。涙が出てきたよ。だって、みんなが、こんなビリッケツの、チンケな俺らにサ、拍手してくれる」

「国さん。ありがとう」

国光も涙を止められませんでした。

1994年・初めてのル・マン内容
チームチーム国光
マシンホンダNSX
メンバー高橋国光・土屋圭市・飯田章
トラブルドライブシャフトを 4回交換
結果総合 19位完走
国光の言葉「一回はル・マンのゴールを経験してほしい」

そして翌1995年6月17日、決勝当日の朝。チーム国光のミーティングで、ある問題が紛糾しました。最後のスティントを、誰が走るか。

国光は若い土屋か飯田章にゴールを任せようとします。土屋は反論しました。

「だめだよ国さん。今年こそ、ラストは国さんだよ」

「いや、圭ちゃん、圭ちゃんか、章でいいんじゃないかな」

「国さん、今年は国さんル・マン10年目じゃないですか。途中は俺たちが頑張るから、最後はカッコよく乗ってほしいんだよ。国さん」

土屋がそう言うと、感極まって泣き始めました。飯田章も泣きました。3人は声をあげて泣き、そのまま戦闘モードに入っていきました。

決勝が近づきました。フォーメーションラップでスタートグリッドに向かう途中、ステアリングを握る土屋は異変を感じます。マシンのリアから煙が上がっていました。

土屋は無線で訴えました。

「リアから煙が出ています。何でしょうかね」

森脇基恭監督の判断は早いものでした。すぐにピットへ入るよう指示します。ピットに戻ったNSXのエンジンカバーを開けると、原因が判明しました。 ミッションから漏れたオイル がエクゾーストパイプに付着して燃え、黒煙を上げていました。

トラブル自体はすぐ直せました。しかし、修理している間に他の全車がスタートしてしまい、ピット出口は閉鎖されます。結局、チーム国光のNSXは、全車スタート後に最下位でピットレーンから戦列に復帰することになりました。 ピットスタート です。

スタート位置で目を閉じていた土屋に、国光が寄り添いました。

「圭ちゃん、先は長いんだ、ゆっくり行こうよ」

しかし土屋は我慢ができませんでした。スタートと同時に、予選並みのラップタイムで前車を1台、また1台と抜いていきます。

1995年・悪夢のスタート内容
トラブル発生フォーメーションラップ中
原因ミッションオイル漏れ+エクゾーストで発火
スタート位置最下位の ピットスタート
国光の言葉「先は長いんだ、ゆっくり行こうよ」
土屋の走り予選並みのペースで1台ずつ抜いた

時刻は深夜に向かいました。3時21分、土屋は飯田からマシンを受け取り、闇夜のコースに出ます。雨もしとしと降り続いていました。

4時近く、突然左のヘッドライトが消えました。

「土屋です。左のヘッドライトが切れました。見えませーん。ピットに入りましょうか?」

監督の森脇は答えます。

「圭ちゃん、切れたのは左だけ。確認するから我慢して走ってて」

森脇はNSXの電気配線図を広げ、断線箇所を探りました。

しかしコース上の土屋は限界でした。コーナー手前の200メートル、100メートルを示す看板に明かりが当たりません。コースの輪郭が見えない。

「土屋です。危険です」

合理的なはずのプロドライバーが、深夜の恐怖の中で、亡き母にすがりました。土屋の母は、1990年に病死していました。

「おふくろ助けてくれ。おばあちゃん俺を守ってくれ」

すると不思議と、コースが明るくなったといいます。土屋は走り切りました。

実は左ヘッドライトの電球は切れていませんでした。 リトラクタブル構造 が振動で壊れ、ライトが下を向いたまま動かなくなっていたためでした。

朝6時16分、土屋はマシンを降りて国光に交代します。

正午、ホンダNSXは総合8位、GT2クラストップに浮上していました。

午後1時6分、最後のスティントを終えた土屋はマシンから降り、倒れこみました。極度の脱水と痙攣、心拍数も乱れ、目は落ちくぼみ、声も出ません。 尾てい骨が疲労骨折 していました。

午後2時30分、飯田章の後を受けて、 55歳の高橋国光 が乗り込みます。栄えあるゴールに向かって走るだけでした。

ゴール直前、最後のアクシデントが訪れます。国光のNSXのエンジンが止まりました。

「あっ、エンジンが止まった!」

森脇の声は落ち着いていました。

「国さん、リザーブタンクのスイッチを入れてください」

「あっ、動いた。直った」

国光のNSXは、アルナージュを過ぎ、ポルシェコーナーを過ぎ、フォードシケインからゴールへと滑り込みます。

午後3時45分、チェッカーが振られました。ピットウォールに集まったチーム国光の関係者たちの目は、みな真っ赤でした。

ホンダNSXは 日本人トリオでGT2クラス優勝 を果たします。総合8位。この日、総合優勝は 関谷正徳 を含む3人が駆るマクラーレン・F1 GTR59号車でした。

会見場へ向かう通路で、土屋は国光に抱きつきました。

「国さん」

もう言葉になりません。3人ともおいおい泣きました。

土屋が16歳で誓った「あの人の舞台に行く」が、ル・マンというモータースポーツの最高峰で叶った日でした。

1995年ル・マン24時間 結果内容
クラスGT2クラス優勝
総合順位8位
ドライバー高橋国光・土屋圭市・飯田章
ゴールを切ったドライバー55歳の高橋国光
総合優勝関谷正徳らマクラーレンF1 GTR59号車

引用元・参照元 高桐唯詩『わが心のル・マン28年史 その11「チーム国光 ル・マン感動物語」』『同 その13「一生の思い出。チーム国光 HONDA NSXのGT2クラス優勝を振り返る」』、Wikipedia『1995年のル・マン24時間レース』、autosport web『今だから際立つ美しさと存在感。1995年ル・マン24時間クラス優勝を飾ったホンダNSX-GT2』、土屋圭市自著『PRiDE』、ベストカーWeb『ありがとう国さん!!』(2022年5月9日)

第5章:国光という名の息子

土屋圭市にとって、高橋国光は速さの手本であると同時に、レーサーとしての生き方そのものを教えてくれた人でした。

コンビを組んでいた頃、土屋がレースで相手にやり返す走りをして、国光に本気で怒られたことがあります。

「相手が死ぬような、怪我するようなコーナーで仕掛けるんじゃない」

国光が愛したのは、クリーンなレースでした。サイド・バイ・サイド、テール・ツー・ノーズ。観に来た客が喜ぶバトルを、正々堂々と見せる。相手をはめる、当ててスピンさせる、弾き飛ばす。そうした走りを、国光は誰よりも嫌いました。

「そんなことまでして優勝しても、何の意味もない」

土屋は後に、この言葉が自分の中で一番生きていると語っています。レースは正々堂々と勝負して前に出る。国光の教えは、ドリキンの背骨になりました。

国さんが残した「レースの流儀」内容
戒め「死ぬようなコーナーで仕掛けるな」
理想クリーンレースを貫く
見せ方客が喜ぶ 正々堂々のバトル
最も嫌ったこと汚い手で勝つこと

2003年10月、土屋は鈴鹿サーキットで、レーシングドライバーとしての26年に幕を引きます。

本人は、ひっそりと去るつもりでした。ところが当時のチーム監督・ 鈴木亜久里 が、本人に内緒で一大セレモニーを用意していました。

その舞台に、サプライズで現れたのが高橋国光でした。

「本当は、まだまだ走ってもらいたいという気持ちはあるんですけれども、本当に26年間、お疲れ様でした」

「全国にファンを作って、日本のGTレース、モータースポーツファンを、こんなに増やしてくれたのは圭ちゃんだったと言っても言い過ぎではないと思うんです。本当にお疲れ様でした、ありがとう!」

31年前、富士のガレージ前で「汚ねぇガキ」と呼ばれた少年に、憧れ続けた神様が、ねぎらいと感謝の言葉を贈りました。土屋は、こらえきれずに涙を流しました。

土屋には、息子がいます。その子に付けた名前は、国光でした。

憧れ、神様と呼び、世界へ連れて行ってくれたその人の名を、土屋は自分の子に受け継がせました。

土屋は折に触れて、こう語ります。

「国さんがいなかったら、単なる普通のドライバーで終わってたよ。国さんがいたから世界に連れて行ってもらえたし、ル・マンで優勝もできた。オレの今は、すべて国さんがいたからなんだよ」

息子の名は「国光」内容
名付け親父・土屋圭市
由来憧れの師 高橋国光から
土屋の言葉「国さんがいたから世界に行けた」
集約された想い「オレの今は、すべて国さんがいたから」

2022年3月16日。高橋国光が、82歳でこの世を去りました。

訃報が世に出る数時間前、土屋は自身のTwitterに、たった1行だけを書きました。

「すみません 今日は何も反応できません すみません」

言葉を失った弟子の姿が、そこにありました。

同年11月21日、東京・ウェスティンホテル東京で「お別れの会」が開かれます。土屋は、誰もが認める「高橋国光一番の弟子」として参列しました。会場には、ひと目で国さんとわかる赤と白のヘルメットが飾られていました。

そして同年12月、富士スピードウェイでNISMO FESTIVAL 2022が開かれます。

土屋は、国光のヘルメットを被りました。当時のレーシングスーツに身を包み、1993年のSTPタイサンGT-Rで、富士を2周します。50年前に金網を切って忍び込んだ、あの富士スピードウェイでした。

マシンを降りた土屋は、国光がどんな存在だったかを問われ、こう答えました。

「近くで言えば親父っていう感じ。立場的には、僕の神様です」

そして、言葉を継ぎました。

「ありがとう、しかないでしょ。本当に、まったくありがとうしかない」

1972年、長野の16歳がペンチで金網を切りました。「汚ねぇガキ」と言われた中で、ただ一人歩み寄ってくれた人がいました。土屋は領収書の裏のサインを宝物にし、あの人の舞台に行きたいと誓いました。やがて2人はコンビを組み、ル・マンで涙を流し、土屋は息子に国光と名付けました。そして最後に、その人のヘルメットを被って富士を走りました。

土屋圭市と高橋国光の50年は、一度も途切れることなく、静かに、しかし確かに、つながり続けていました。

50年の絆・象徴的な瞬間出来事
1972年金網を切った16歳に 領収書の裏のサイン
1992年STP TAISAN GT-Rでコンビ結成
1995年ル・マン24時間 GT2クラス優勝
息子の命名国光と名付ける
2022年NISMO FESTIVALで師のヘルメットを被って走る

引用元・参照元 clicccar.com『国さんを表彰台に上げたい!土屋圭市の願いが叶った日【高橋国光さんを偲んで】』(2022年12月3日)、jp.motorsport.com『国さん、ありがとう。長谷見、土屋が亡き高橋国光ゆかりのGT-Rをドライブ』(2022年12月4日)、ベストカーWeb『ありがとう国さん!!』(2022年5月9日)、Wikipedia『土屋圭市』、中日スポーツ(2022年3月16日)