はい、今日はバイクの免許制度についてお話ししますね。
バイクの免許って、これまでに大きな改正が二回あったんですね。一回目が1975年、二回目が1996年です。今日はそのうち、1975年のほうを中心に見ていきたいと思います。
この1975年の改正で何が起きたのか。ものすごく簡単に言うとですね、普通の人がバイクに乗れる上限が400ccで打ち止めになった、ということなんですね。
それより大きなバイク、たとえばナナハンに乗りたいという場合はですね、限定解除という試験を受けなきゃいけなくなったんです。しかもこの試験、教習所で講習を受けてから受ける試験じゃないんですよ。試験場に行って一発勝負で受けるしかなくて、しかも合格率は1パーセントだと言われていました。
そして驚くことに、この状態が1996年まで、21年近く続くんです。
この記事ではですね、どうしてそんな制度ができたのかというところから始めます。それから、その制度が日本のバイクに何をしたのか。最後に、それを終わらせたのは誰だったのか。この順番でお話ししていきますね。
それでは、いってみましょう。
第1章:交通戦争と呼ばれた時代
まずは1975年より前、それがどんな時代だったのかというところからですね。
日本では昭和30年代のころから、交通事故で亡くなる方が急激に増えていったんです。日清戦争で亡くなった日本側の戦死者が、2年間で1万7282人。それを上回りそうな勢いで増えていく。だから当時、交通戦争という呼び方をされるようになったんですね。比喩というより、本当に戦争の死者数と並べて語られていたんですね。
その死者数がピークに達したのが、1970年、昭和45年です。この年、日本の交通事故で亡くなった方が1万6765人いました。これは警察庁の交通白書に載っている数字です。
そしてですね、まさにその時代に、日本のバイクがいきなり強くなるんです。
1969年、ホンダがCB750FOURを出しました。空冷の4ストローク並列4気筒、排気量736cc、最高出力67馬力、量産車としては世界で初めての4ストローク4気筒だったんですね。
続いて1973年、カワサキが750RSを出します。いわゆるZ2ですね。746ccで69馬力。もともとアメリカで売っていた900ccのZ1を、日本国内向けに750まで落としたモデルなんですね。
こんなふうに、とんでもないバイクが次から次へと出てくるんですね。
ここでひとつ、押さえておきたいことがあります。当時、750ccというのが日本国内で売られるバイクの上限だったんですよ。これは法律じゃなくて、メーカー側の自主規制です。1969年、まさにCB750FOURが出たころからですね、750ccを超えるバイクは国内では売らない、という申し合わせができていたんです。
だから日本のバイク乗りにとって、ナナハンというのは、単に大きなバイクというだけじゃなくて、国内で買える一番上のバイクだったんですね。
そしてですね、その一番上のバイクが、暴走族に大人気だったんですよ。
彼らに好まれた車種は、けっこう具体的に記録に残っています。1970年代に人気があったのは、ホンダCB750FOUR、カワサキ750RS、それから750SS MACH、スズキGT750、ヤマハTX750など。
お気づきの通り、全部750なんですね。
もちろん、こういうバイクに乗っていた人が全員暴走族だったということではありませんよ。ただですね、大集団で爆音を立てて走り回る彼らの姿は非常に目立ちましたし、事故も起きました。大きな社会問題になったんですね。そこでいよいよ、国が動くんです。
第2章:1975年10月1日に何が変わったのか
免許の改正が行われたのは1975年、昭和50年の10月1日です。
このとき道路交通法施行規則の一部が改正されて、それまで一つの区分しかなかった自動二輪免許が三つに分けられたんですね。
125ccまでの小型限定、400ccまでの中型限定、そして制限なしの三つです。
ここで肝心なことはですね、小型と中型は教習所で取れたのに、制限なしの免許だけは教習所で取れなかったということなんですよ。運転免許試験場に自分で行って、一発試験を受けるしかなかったんです。
これが、いわゆる、有名な、悪名高い、限定解除なんですね。
ちなみにですね、この改正より前に自動二輪免許を取っていた人はどうなったかというと、そのまま制限なしの免許を持ち続けられたんです。だから、大きなバイクの試験なんて一度も受けていないのにナナハンに乗れる、そんなラッキーな世代が存在したんですよ。うちの親父がそうだった、という方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。
さて、では限定解除の試験がどのくらい難しかったのか。
二輪の技能試験には、いくつか特徴的な課題があるんですね。今の大型二輪の試験でも行われているのが、低速でバランスを取る直線狭路コース、いわゆる一本橋です。それからパイロンのあいだを縫っていく連続進路転換コース。スラロームと呼ばれるものですね。デコボコの上を通過する波状路コース。それに、指定された速度からの急停止。
こうした課題をですね、当時は試験場でいきなりやらされたんです。教習所に通えば繰り返し練習できますけど、一発試験には、その練習する過程がないんですね。
もう、無茶苦茶ですよね。まさに、落とすことが目的の試験だったんですね
先ほど触れた合格率1パーセントというのは、この試験の話なんです。100人受けて受かるのが1人前後という計算になりますよね。
ただですね、この1パーセントという数字については少し注意が必要かなと思っているんですね。というのも、実際に当時受験していた方の証言で、こういうものがあるんです。制度ができたごく初期ならともかく、年間で均せば1パーセントということはないはずだ。自分が通っていた小金井の試験場では、30人受けて2人か3人は受かっていたよ、という回顧談があるんですね。
ですからですね、これはきっちりとした統計というより、1パーセントと言われるほど難しかった、といったところかなと思いますね。
それと、当時の噂話もいろいろ残っているんですよ。あくまで噂話ですけど、そのつもりで聞いてくださいね。
まず、試験の厳しさについて。走り出す前の服装や言葉づかいが悪いだけで不合格になった。後方確認の首の角度が試験官の意に沿わないと落とされた。
それから地域ごとの話もあるんですね。沖縄県では、制度が始まった1975年10月から翌年3月までのあいだに合格した人が6人しかいなくて、しかもその6人が全員白バイ隊員で、一般の民間人はゼロだったという話。
群馬県は予約なしで受験できたので、練習代わりに通う人たちがいて、そういう人たちは平均30回くらいで合格していたという話。
これらは噂話ですけど、ただ、こういう話が全国で語られていたということ自体が、当時の空気をよく伝えていると思うんですよね。
第3章:もしナナハンに乗ってしまったら、どうなったのか
さて、ここからがちょっと面白いところなんですね。
当時の免許制度は、たとえば、「中型免許」という独立した免許があったんじゃないんですよ。
どういうことかというとですね、まず、自動二輪免許というものがひとつだけあって、そこに「小型に限る」、「中型に限る」、といった条件が付いている。そういう構造だったんですね。
そうすると、どうなるか。
中型限定の人がナナハンに乗ってしまっても、なんと、無免許運転にはならないんですね。
条件違反、という扱いだったんです。
免許証に「眼鏡等」と書いてあるのに眼鏡をかけずに運転した。あれとまったく同じ扱いだったんです。処分の重さもそれと同じくらい軽いものだったんですね。
司法試験より難しいと言われる試験だったのに、それに落ちた人であっても、実際にナナハンに乗っちゃったときの罰則は、眼鏡の掛け忘れと同じだったんです。なんだかちぐはぐな感じがしますよね。
話しの行きがかりとして、ここで1996年の改正についても触れておきたいと思います
この年にも免許制度が大きく変わっているんですが、改正の内容はですね、自動二輪車免許を廃止して、大型自動二輪車免許と普通自動二輪車免許を新しく作る、というものでした。
ようするにですね、1975年の時点では、自動二輪の免許は1種類しかなくて、条件を付けることで125㏄、400cc、それより上、というように3つの区分に分けていただけだったんですね
それが、1996年の改正では、自動二輪の免許が正式に2つの種別に分かれたんです。「種別」が別になったから、もしも普通自動二輪の免許しかない人がナナハンに乗ったら、これは完全な無免許運転になるんですね。眼鏡の掛け忘れのような軽い罰則ではなくて、重大な違反を犯すことになったんですね。
第4章:400ccが頂点になった
いずれにしてもですね、この免許制度が日本のバイク文化を作り変えていくんですね。
最初に直撃を食らったのはホンダでした。
1974年12月に発売されたドリームCB400FOUR、通称ヨンフォアですね。このバイクの排気量が408ccだったんですよ。
400ccじゃなくて408cc。たったの8ccオーバーです。この8ccのせいでですね、翌1975年から、中型限定では乗れないバイクになっちゃったんですね。
ホンダはどうしたか。1976年3月、排気量を398ccまで落としたCB400FOUR-IとCB400FOUR-IIを出すんです。ストロークを縮めて10cc削ったので、馬力は37から36にわずかに落ちましたけどね。
ただですね、このモデルは1977年5月に生産終了しているんですよ。398cc版が売られていたのは、たった1年2か月なんですね。408ccの元のモデルも海外向けも、このとき一緒に生産を終えています。
つまりですね、ヨンフォアは免許改正に合わせて必死に排気量を落としたのに、その姿でほとんど走らないまま消えていったバイクだったんですね。
そして、ヨンフォアが消えてしまってからは、しばらくのあいだ、400ccの4気筒という選択肢が日本国内では見当たらなくなってしまったんですね
いずれにしてもですね、免許制度の改正があってから、ほぼすべてのバイク乗りにとって、400ccが乗れるバイクの頂点になったんですね。
一方で、メーカーの立場からするとどういうことになったのか。それは、400ccクラスに全力を注ぎ込む理由ができた、ということなんですね。お客さんの大半にとってそれが最上級モデルなんですから、当然そこに一番いいものを入れてきますよね。
そこで登場したのが、1979年のカワサキ Z400FXです。
先ほど触れた通りですね、400ccの4気筒はヨンフォアが先にやっていたんですね。ただ、ヨンフォアはSOHCでしたけど、このZ400FXはクラスとして初めてDOHCの並列4気筒を積んできたんですね。空冷4気筒43馬力。ヨンフォアが消えてぽっかり空いていた場所に、より新しい心臓を持って現れたバイクだったんですね。
そして、これが爆発的に売れたんです。
いわゆる400cc4気筒戦争が始まるんですね。FXに遅れること約1年、1980年6月にヤマハがXJ400で参入し、他社も続いていきました。
そして1985年、カワサキからGPZ400Rが出ます。
これがまた、すごいバイクなんですよ。エンジンはついに水冷になり、DOHC4バルブ並列4気筒で排気量398cc、最高出力59馬力、最高速度205キロ。輸出仕様のGPZ600Rの弟分として作られていたので、車体が400ccとは思えないくらい立派なんですね。フレームも、兄貴分はスチールでしたが、こちらはアルミ製でした。
ちなみにこの59馬力という数字ですけど、当時は馬力についてもメーカーの自主規制があって、400ccクラスは59馬力が上限とされていたんですね。つまりGPZ400Rは、その天井いっぱいまで出してきたんですね。
このバイクがどのくらい売れたかというと、発売初年の1985年に1万8200台。そして、1985年と1986年の2年連続で400ccクラス登録台数1位を取っているんですね。まぎれもないベストセラーバイクだったんです。
ちょっと想像してみてください。当時のバイク好きにとって、これが日本で乗れる一番上のバイクだったんですね。
憧れの度合いが今の400ccとはまるっきり違うんですね。今なら400ccというと、大型に上がる前のクラスという位置づけですよね。でも当時はそうじゃない。これ以上のバイクは、あの試験を突破しない限り絶対に手に入らない、まさに天井だったんですね。
しかもですね、さっきお話しした750ccの自主規制がありますから、仮に限定解除に受かったとしても、国内で普通に買えるのは750ccまでなんですね。それより上のバイクとなると、逆輸入車を探すしかない時代だったんですね。
つまりですね、当時の日本のライダーの前には、三重の蓋があったということになるんです。免許という蓋と、750㏄までという蓋と、それ以上は逆輸入しかないという蓋ですね。
実際、この時期には、他にも名車がどんどん出ているんですね。たとえば、ホンダCBX400F、スズキGSX400F、カワサキZ400GP。もう少し後になるとヤマハFZ400RやFZR400が出てきますね。250ccのほうでもNSR250R、TZR250、RG250ガンマなんかが人気を集めた時期でした。
そういうわけでですね、日本の1980年代、根っからのバイク好きたちが憧れたバイクというのはですね、その多くが400ccと250ccなんですよ。台数の上では原付が圧倒的で、一部とんでもない高性能モデルもあったんですが、憧れは400か250だったんですね。
免許制度がそうさせたんです。規制が400㏄文化を作ったんですね。
ちなみに、こうした時代の変遷に伴って、暴走族のほうも変わっていくんですね。いわゆる族車と言われるバイクが、CB750FOURやZ2から、CB400FOUR、CBX400F、ホークII、GS400E、GT380、Z400FX、KH400といったバイクたちに入れ替わっていきました。
第5章:そもそも免許改正は誰が決めたのか
さて、ここでひとつ、皆さんと一緒に考えてみたいことがあるんですね。
1975年のこの改正、誰が決めたと思いますか?
これ、国会じゃないんです。
道路交通法施行規則というのは、正式には昭和35年総理府令第60号といいます。総理府令、つまり内閣総理大臣が発する命令ですね。法律じゃないんですよ。
法律を作ったり変えたりするには国会の議決が必要ですけど、省令とか府令にはそれが要らないんですね。
じゃあ勝手に決めてしまったのかというと、そこはちょっと違うんです。もともと道路交通法の第91条に、免許に条件を付けることができるという規定があるんですね。つまり、条件を付ける権限そのものは、すでに法律が認めていて、府令はその条件の中身を書いただけ、という建付けになっているんですね。
125ccにするか、400ccにするか、その数字は府令によって書ける、ということなんですね。
つまりですね、1975年の免許改正は、法律を変えないまま、実質を変えちゃったということなんです。
では、1996年の改正はどうだったのか。こちらはですね、きちんと国会を通っているんです。
1995年3月9日、第132回国会の衆議院・交通安全対策特別委員会で、当時の国家公安委員長だった野中広務さんが、道路交通法の一部を改正する法律案の提案理由を説明しているんですね。
内容は、自動二輪車免許を廃止して、大型自動二輪車免許と普通自動二輪車免許を新しく作る、というものでした。
すでに触れたように、この改正によって、自動二輪に2つの種別が生まれたんですが、それまでの条件による3つの区分ではなく、そもそも種別の違う免許になったんですね
この2つの変更は、同じ免許制度の変更でも、手続きの重さがまるで違います。
大きな社会問題が発生した時に、1975年は、あれこれ面倒なことは省略して府令によってササっと変更した、という感じのものだったのに対して、1995年の改正は、国民から選ばれた国会議員によって、正式に国会審議を経た上で手続きされた改正だったんですね。
手続きの重さが全く違うんですね。
第6章:三ない運動のこと
ここでちょっと横道にそれますが、しばらく前に、三ない運動について動画を出したことがあるんですよ。高校生にバイクの免許を取らせない、乗らせない、買わせない、というあれですね。
これは1982年8月25日に、全国高等学校PTA連合会が仙台大会で決議したものです。もう少し遡ると、1971年に島根県が全国で初めて開始したとされている運動のことですね。愛知県が発祥だという説もあるようですけど。
その動画を出したときにですね、ありがたいことに、たくさんコメントをいただいたんですけど、意見がきれいに二つに割れていたんですね。
ひとつは、そんなのおかしいだろうという意見ですね。16歳になれば免許を取れると法律が認めているのに、学校やPTAという、法律を作る立場でもない組織が、実質的にその権利を奪ってしまっていいのか、と。
もうひとつは、いや別におかしくないという意見でした。法律とは別に、それぞれの団体が独自のルールを設けるのは当たり前のことで、社会に問題があるならどんどんやればいいじゃないか、と。
今回ですね、1975年と1996年の手続きの違いを調べていて、あ、これは同じ構図だなと思ったんですね。
大きな社会問題が起きているんだから、いちいち国会なんて通さずにさっさと決めてしまえばいい、という考え方がある。
一方で、いや、大きな社会問題だからこそ、きちんと国会で審議して、変える必要があるなら、ちゃんと法律として変えるべきだろう、という考え方。
ちなみに、数の上では、後者の方が大勢を占めていました。つまり、高校生に免許を取らせないのは法律を無視している、どうしても取らせたくないなら法律で決めるべきだろう、という立場の側が約8割でした。
どちらが正しいのかを、ここで私が意見するつもりはありません。交通戦争という現実があったんですから、迅速な対応が必要だったという言い分も理解できるところです。
ただですね、ここでひとつご紹介しておきたい文章があるんですね。
それは本田宗一郎さんの言葉です。
「教育の名の下に高校生からバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えるのが、学校教育ではないのか」
この言葉は、全国高等学校PTA連合会が仙台大会で3ない運動を決議したのと同じ1982年に刊行された著書の中にある言葉です。
なお、3ない運動って、それほど昔の話ではないんですね。形骸化していた面があったとはいえ、全国運動としては2017年まで続いていた運動だったんです。驚きですよね。
第7章:終わらせたのは誰だったのか
やや横道にそれてしまいました。
1975年の改正から約21年続いた限定解除という制度は、1996年に終わりを迎えることになりました。
では、誰が終わらせたのか。
それは、アメリカ政府だったんですね。
みなさんは、年次改革要望書という言葉を聞いたことがあるでしょうか。1990年代、アメリカ政府が日本政府に対して、この規制を変えろ、あの規制も変えろ、と毎年毎年、要望を突きつけていたんですね。※今もそうですが
そのなかでですね、日本の二輪免許制度が槍玉に挙げられたんですよ。ハーレーのような大型の輸入バイクが日本で売れないのは、日本の運転免許制度が原因であり、これは非関税障壁ではないか、というんですね。
そして、これには、ドイツのBMWモトラッドなども賛同していました。
日本国内では、たとえば、学生が同様の声を上げると先生に叱られますし、メーカーが声を上げると官僚にいじめられますし、識者が声を上げるとマスコミに叩かれますし、結局のところ、外圧に頼るしかない状況だったのだと思いますね。
日本政府は、この要望に応じる形で、まず試験場のほうで講習が行われるようになりました。
そして、この講習を受けた人に限ってですけど、合格率が5パーセントほどに上がったと言われているんですね。そして1996年9月、ついに指定自動車教習所で大型二輪の教習が受けられるようになったんですね。一発試験ではなくて、教習所で訓練してから受験する選択肢が生まれたんですね。
第8章:それにしても、何のための制度だったのか
1975年の免許改正は、そもそも暴走族対策として作られたものでした。ところがですね、当時の暴走族の特徴として、きちんと記録に残っているんですけど、実際には、無免許運転者が多かったんですよ。
免許を厳しくしたところで、そもそも免許を持たない人間には届かないです。
統計によると、暴走族の数が減り始めるのは1982年からなんですけど、その大きな要因として挙げられているのは、免許制度じゃないんです。
1978年に道路交通法に新設された「共同危険行為」という規定によって、警察の取り締まりが厳しくなったんですね。また、これに伴って、学校や家庭を含めた地域ぐるみの暴走族対策も進展したんですね。それから、バイクの不正改造業者の摘発も盛んに実施されるようになりました。こういったものが重なって、ようやく減っていったとする見方が今では有力なんです。
つまりですね、免許制度は暴走族対策としてはあまり機能しなかったんです。効果がゼロだったとは言わないけれど、有効な策とは決して言えなかったのはほぼ間違いないと思いますね。
にもかかわらずですね、実質的に400㏄までしか乗れないこの免許制度は、1996年まで、21年間続いたんですね。
そして、この21年間で、締めつけられ、自由を奪われたのは誰だったのか。それはもはや明白でしょう。それは、真面目に免許を取ろうとしていた人たちなんですよ。
もしですよ。もしも早い段階で、この免許制度は暴走族対策として有効ではないと認識されて、制度が変わっていたら、どうなっていたでしょう?
つまり、400ccを超えるバイクの免許も、真面目に教習所に通えばちゃんと取れるようになっていたら、どうなっていたでしょう?
日本のバイク文化は、まったく違うものになっていたはずなんですね。
400ccが天井だったから、日本の大型バイク文化は、疑いようがなく、そのぶん遅れたんですよね。その遅れは、いまだに完全には取り戻せていないのかもしれませんね。
今回は以上です。ありがとうございました。

