真夏の鈴鹿サーキット。
気温は37度を超えます。
アスファルトの照り返しで、路面はさらに高温になります。
その灼熱のなかを、1台のマシンが8時間にわたって走り続けます。
ライダーの名は 高橋巧 です。
埼玉県北本市の出身で、1989年生まれ。
鈴鹿8時間耐久ロードレース、通称 「鈴鹿8耐」 で、歴代最多となる 7勝 を挙げてきた選手です。
誰も到達したことのない記録を持つ、まぎれもない絶対王者です。
第1章 「好きじゃない」と言う王者
2025年の第46回大会も、高橋は勝ちました。
チームの 4連覇 であり、自身の最多勝記録を 7 に伸ばした一戦でもありました。
しかもこの年は、特別に過酷でした。
3人目のライダーが手続き上の問題で大会直前に参戦を見送り、急きょ 2人体制 での出場となったのです。
本来3人で分け合う8時間を、2人で走り抜く。
決勝日の近隣の亀山市では、最高気温 37.4度 が記録されました。
レースを終えた高橋が口にした言葉は、勝利の高揚とは少し違うものでした。
「ただただ疲れた」
これが、7勝目を挙げた王者の第一声でした。
ところで、この高橋巧という選手には、ファンを驚かせる本音があります。
鈴鹿8耐について尋ねられたとき、彼はこう言い切ったことがあります。
「正直に言って、好きなレースじゃないんです」
最多勝の選手の言葉とは思えません。
理由を聞くと、答えはさらに意外でした。
チーム戦だからでも、長丁場で展開が読めないからでもありません。
「身体的に辛いレースだからです。8耐が好きな人はいないんじゃないですか。辛いから」
純粋に、きついから好きではない。
それだけの理由でした。
では、なぜ好きでもないレースで勝ち続けるのか。
高橋の説明は、こうです。
「1年に1回しかないレースですし、そこで宇川徹さんの記録をやっと超えられた。だから、そこから記録を伸ばしていきたい」
つまり、勝ってしまったからこそ、辞められない。
1回勝つと「また出なければ」と思い、「出るからには勝たなければ」と思う。
記録が記録を呼び、その記録を守るために、また灼熱の鈴鹿へ戻っていく。
好きという感情とは別のところで、高橋は 7勝 という金字塔を積み上げてきました。
| 第1章のポイント | 内容 |
|---|---|
| 記録 | 高橋巧は鈴鹿8耐で歴代最多の7勝 |
| 2025年 | 4連覇と同時に7勝目を達成 |
| 過酷さ | 直前トラブルで2人体制の戦いに |
| 本音 | 「好きなレースじゃない」と公言 |
| 矛盾 | 勝つほど辞められない王者 |
この記事では、記録だけでは見えてこない高橋巧という人間に迫っていきます。
暑さに強い理由、世界に挑んで届かなかった日々、そしてレースの舞台裏で見せる人柄。
絶対王者の、知られざる物語です。
引用元 中日スポーツ(2025年8月3日)、モーサイ(2024年12月2日)、Honda企業情報サイト(2025年8月4日)
第2章 7つの優勝、その系譜
高橋巧の 7勝 が、どれほど突出した記録なのか。
それを理解するには、鈴鹿8耐の長い歴史をさかのぼる必要があります。
このレースは1978年に始まりました。
40年以上の歴史のなかで、複数回優勝した名ライダーは何人もいます。
しかし、突出した存在として君臨してきたのが、オーストラリア出身の ワイン・ガードナー でした。
1980年代から1990年代にかけて4回優勝し、 「ミスター8耐」 と呼ばれました。
長くこの4勝が最多記録でした。
その記録を破ったのが 宇川徹 です。
2000年代に勝利を重ね、通算5勝に到達しました。
ガードナーの4勝を超える、新たな頂点でした。
そして、その5勝に並び、追い越したのが 高橋巧 です。
本人がこう語っています。
「宇川徹さんの記録を、やっと超えられた」
「やっと」という言葉に、記録更新の重みがにじみます。
| 最多勝記録の系譜 | 勝利数 | ポイント |
|---|---|---|
| ワイン・ガードナー | 4勝 | 長く最多を保持 |
| 宇川徹 | 5勝 | 2000年代に記録を更新 |
| 高橋巧 | 7勝 | 前人未到の頂点へ |
では、高橋の7勝を1勝ずつ振り返ります。
最初の勝利は2010年でした。
清成龍一、中上貴晶と組んでの初優勝です。
このとき高橋は20歳7か月。
実走ライダーとして史上最年少の優勝でした。
ただし、記録上の最年少優勝者は別にいます。
第3ライダーとして登録され、決勝を走らなかった18歳の中上貴晶です。
同じ名門チーム・ ハルクプロ で育った2人をめぐる、記録の妙でした。
3年後の2013年、高橋はレオン・ハスラム、マイケル・ファン・デル・マークと組んで2勝目を挙げます。
翌2014年も同じ顔ぶれで連覇を達成し、3勝目。
ここまでは、すべてハルクプロからの参戦でした。
ここから高橋の8耐には、長い空白が生まれます。
世界への挑戦のため、勝利から遠ざかる時期が続きました。
その物語は、のちの章で詳しくたどります。
復活は2022年でした。
ホンダのワークスチーム 「Team HRC」 から、長島哲太、イケル・レクオーナと組んで優勝。
ホンダにとっては8年ぶりの勝利であり、HRC創立40周年の節目を飾る一勝でもありました。
高橋にとっては実に8年ぶりの、4勝目です。
翌2023年、長島哲太、チャビ・ビエルゲと組んで216周を走破し、連覇。
これが5勝目で、宇川徹の記録についに並びました。
そして2024年、名越哲平、ヨハン・ザルコとのチームで、史上最多となる220周を走破して優勝。
6勝目で、ついに宇川徹を抜き、単独最多記録に到達しました。
| 年 | チームメイト | 戦績・節目 |
|---|---|---|
| 2010年 | 清成・中上 | 初優勝。実走最年少 |
| 2013年 | ハスラムら | 2勝目 |
| 2014年 | ハスラムら | 連覇で3勝目 |
| 2022年 | 長島・レクオーナ | 8年ぶり復活、HRCで4勝目 |
| 2023年 | 長島・ビエルゲ | 216周走破。5勝目で宇川徹に並ぶ |
| 2024年 | 名越・ザルコ | 220周の最多周回。6勝目で単独最多 |
| 2025年 | 2人体制 | 217周走破。7勝目、4連覇 |
ここまでの7勝のうち、初優勝から3勝目までは ハルクプロ 、4勝目以降は Team HRC からの参戦です。
出場マシンはすべてホンダの CBRシリーズ でした。
型式こそ世代ごとに変わりましたが、ブランドは一貫してCBR。
だからこそ高橋は 「CBRの申し子」 と呼ばれます。
記録の系譜のなかに、ホンダと歩んできた一人のライダーの軌跡が、くっきりと刻まれています。
引用元 Honda.Racing「鈴鹿8耐挑戦の歴史」、ヤマハ発動機 鈴鹿8耐ヒストリー、Wikipedia「鈴鹿8時間耐久ロードレース」
第3章 暑さに勝つ男の秘密
鈴鹿8耐は、真夏に開催されます。
炎天下で8時間を戦う、過酷な耐久レースです。
選手たちは熱中症や脱水症状と隣り合わせで走り続けます。
そのなかで、高橋巧には独特の評判があります。
「暑さに異常に強い」 という評判です。
1スティント、約1時間の連続走行を終えても、汗をあまりかいていません。
マシンを降りてすぐ、テレビのインタビューに平然と答えます。
まるで暑さを感じていないかのような姿です。
ところが、本人に聞くと、答えはまったく逆でした。
「自分では普通の人以上に暑がりだと思います。だから、暑いのは好きじゃない」
暑さに強いどころか、人一倍の暑がり。
本人はそう認識しています。
では、あの涼しい顔は、どこから来るのか。
秘密は、地道なトレーニングにありました。
| 暑さをめぐる意外な事実 | 内容 |
|---|---|
| 周囲の評価 | 「暑さに異常に強い」 |
| 本人の自覚 | 「普通以上に暑がり」 |
| 涼しい顔の裏 | 地道な特訓の積み重ね |
高橋は毎年、5月から6月頃に「暑さ対策」のトレーニングを始めます。
やり方は、いたってシンプルです。
気温が35度になろうが、あえて暑い時間、暑い場所を選びます。
そして、 サウナスーツ を着てランニングします。
汗を逃がさないスーツを着込み、ただでさえ暑い屋外を走る。
本人の言葉では 「気温以上に辛い状況に身体を置いて、動かす」 やり方です。
ねらいは、身体を暑さに慣れさせることです。
これは 「暑熱順化」 と呼ばれ、スポーツの世界では一般的な手法でもあります。
汗をかく習慣を体に覚えさせ、夏本番に備えるわけです。
高橋はそれを、自分なりに突き詰めていました。
トレーニングの時間にも、こだわりがあります。
8耐の1スティントは約1時間です。
セーフティカーが入れば、もっと長くなります。
だから高橋は、1時間以上は動き続けるようにしています。
「30分しかトレーニングをやらなかったら、残りの30分でどうなるのかわからない」
本番で走る時間を、トレーニングで下回らない。
徹底した逆算です。
ただし、本人は効果について謙虚です。
「それだけで慣れるのかというと、慣れないんですけど……でも、やらないよりマシだったような気がします」
慣れない、と言いながらも続ける。
やらないよりマシ、という地道さ。
派手な才能の話ではなく、こうした積み重ねが、あの平然とした姿を支えていました。
脱水対策として、スポンサーから提供されるサプリメントで体調を管理していることも明かしています。
| 暑さ対策トレーニングの中身 | 内容 |
|---|---|
| 時期 | 5〜6月に暑熱順化を開始 |
| 方法 | サウナスーツで炎天下を走る |
| 時間 | 1時間以上動き続ける逆算 |
| 補助 | サプリメントで脱水を予防 |
この「暑さへの強さ」が、勝敗を分けた場面もあります。
2024年の大会では、チームメイトの 名越哲平 が脱水症状を起こしました。
そのため、本来は予定していなかった最終スティント、つまりチェッカーを受ける役目が、急きょ高橋に託されたのです。
最も過酷な役回りを引き受けてもなお、高橋は走り切りました。
後輩への思いを、こんなふうに語っています。
「先輩として言わせてもらえれば、『暑さ対策のトレーニングをもっとしておこうよ』と」
冗談めかした言葉ですが、自身の準備への自負がにじみます。
暑さに弱いと自覚するからこそ、誰よりも準備する。
その姿勢が、灼熱の鈴鹿で7勝を支える土台になっていました。
引用元 Honda.Racing「鈴鹿8耐3連覇 ライダー編」、モーサイ(2024年12月2日)
第4章 世界で戦いたかった
鈴鹿8耐で前人未到の記録を打ち立てた高橋巧。
その輝かしい数字の裏側には、満たされなかった夢があります。
世界の頂点を目指し、届かなかった日々です。
この章では、記録だけでは見えない、もう一つの高橋巧をたどります。
すべての原点は、 ハルクプロ にあります。
正式名称はMuSASHi RT HARC-PRO.。
13歳でここに加入した高橋は、青山博一や中上貴晶といった世界へ羽ばたく先輩たちの背中を見て育ちました。
このチームから、高橋もまた頂点を目指すことになります。
国内での実績は、早くから際立っていました。
2008年、全日本の GP250クラス で年間チャンピオンを獲得。
クラス最年少の王者でした。
そして2017年には、全日本の最高峰 JSB1000クラス でチャンピオンに輝きます。
ハルクプロ創設者の本田重樹氏は、このタイトルを 「悲願だった最高峰クラスでのチャンピオン」 と表現しています。
チームにとっても本人にとっても、長く待ち望んだ栄冠でした。
| 高橋巧の原点 | 内容 |
|---|---|
| 加入 | 13歳で名門ハルクプロへ |
| 2008年 | GP250最年少チャンピオン |
| 2017年 | 全日本JSB1000王者 |
| 評価 | 本田重樹氏が「悲願」と評した最高峰制覇 |
国内で頂点を極めた高橋には、もう一つの願いがありました。
世界で戦うことです。
きっかけは、2015年にありました。
MotoGP の日本グランプリに、ワイルドカード、つまりスポット参戦したのです。
最高峰クラスへの、初めての挑戦でした。
結果は決勝12位完走で、ポイントも獲得しました。
スポット参戦でのポイント獲得は、簡単なことではありません。
このとき高橋は、はっきりと本音を語っています。
「やっぱり世界で戦いたいという気持ちが、出場してより強くなった」
この思いが、後の海外挑戦へとつながっていきます。
| 世界への扉 | 内容 |
|---|---|
| 2015年 | MotoGP日本GPにワイルドカード参戦 |
| 結果 | 決勝12位完走でポイント獲得 |
| 心境 | 「世界で戦いたい」気持ちが強まる |
挑戦は、段階的に進みました。
2017年、まず代役として、 スーパーバイク世界選手権(SBK) の2レースに初参戦します。
初めての世界選手権、初めてのサーキット、初めてのマシン。
すべてが初めてのなかで、高橋は世界との距離を肌で感じました。
「世界は国内よりワンランクもツーランクも上」 。
そう痛感しつつも、 「越えられない山ではない」 という手応えも口にしています。
そして2020年、ついに本格的な勝負に出ます。
SBKへの初のフル参戦です。
高橋にとって、初めての海外フル参戦でした。
しかし、世界の壁は高いものでした。
最高位は14位、シーズン途中のアラゴンで15位の初ポイントを獲得するのがやっとでした。
トップ争いには、遠く及びませんでした。
翌2021年は、舞台を 英国スーパーバイク選手権(BSB) に移します。
Honda Racing UKからの参戦でした。
1年目はケガに苦しみました。
2年目の2022年は万全の状態で臨み、終盤は6レース連続で入賞、シーズン28ポイントを獲得します。
それでも、ランキングは20位。
母国で頂点に立った男にとって、苦しいシーズンが続きました。
| 世界への挑戦と現実 | 内容 |
|---|---|
| 2017年 | SBKに代役で初参戦 |
| 2020年 | SBKフル参戦も最高14位 |
| 2021〜2022年 | BSBへ。ケガと苦戦の日々 |
| 結果 | 世界の頂点には届かず |
世界で戦いたいという夢は、こうして思うようにはかないませんでした。
しかし、この海外での日々は、決して無駄ではありませんでした。
BSBで戦った経験を、高橋は後にこう振り返っています。
イギリスは小さなコースが多く、エンジンの低中速の力が物を言う。
だから 「馬力があれば良いってもんじゃない」 と痛感した、と。
この気づきは、後に8耐でのマシン開発に生かされていきます。
世界の頂点には届かなかった。
けれど、その経験を抱えて母国に戻った高橋は、鈴鹿で記録を更新し続ける王者になりました。
届かなかった夢があるからこそ、手にした記録の重みがある。
高橋巧という選手の奥行きは、この対比のなかにあります。
引用元 Wikipedia「高橋巧」、Honda.Racing「BSB 2022総集編」、Honda HRC SBK、Yahoo!ニュース(辻野ヒロシ)、モーサイ(2024年12月2日)
第5章 灼熱のドラマ ── 珍事と人柄
7勝という記録は、無数のドラマの積み重ねです。
8時間という長丁場では、予想もしない出来事が起こります。
この章では、レースの舞台裏で見せた高橋巧の素顔を、いくつかのエピソードから描きます。
最も劇的だったのは、2024年の大会です。
7月21日に開かれた第45回大会。
高橋は名越哲平、 ヨハン・ザルコ と組み、6勝目をかけて戦っていました。
レースは終盤までトップを快走し、2位に大きな差をつけていました。
誰もがHRCの勝利を確信した、その終盤に、思わぬ落とし穴が待っていました。
最後のピットイン。
ザルコから高橋へマシンを託す場面でした。
給油が完了する前に、リア担当のクルーがマシンに触れてしまったのです。
これがルール違反でした。
罰は、本来10秒のストップ&ゴーペナルティです。
しかし、レース終了までにそれを消化する時間が足りません。
そこで規定により、 40秒の加算ペナルティ に切り替えられました。
困ったのは、それをどう高橋に伝えるかでした。
チームが取った方法は、サインボードでの表示変更です。
それまで2位とのリードを 「+50」 と示していたボードを、いきなり 「+10」 に変えたのです。
40秒減った理由までは、ボードでは伝えきれません。
当然、高橋は混乱します。
「差が一気に40秒も縮まって見えたので、違う人のサインを見ているのかと思いました」
| 2024年・6勝目のペナルティ事件 | 内容 |
|---|---|
| 原因 | 最後のピットで給油前に車体へ接触 |
| 本来の罰 | 10秒のストップ&ゴー |
| 切替 | 消化できず40秒加算に |
| 伝達 | サインボードが「+50」から「+10」に |
それでも高橋は冷静さを失いませんでした。
残り時間を確認し、2位に逆転される差ではないと判断して走り切ります。
2位YARTヤマハとのフィニッシュ差は47秒台でしたが、ペナルティが加算され、最終的な差は7秒台まで縮まりました。
それでも、勝ちは勝ちです。
高橋はこの一戦で、単独最多となる6勝目を挙げました。
レース後、原因を作ったクルーが高橋に謝ってきました。
昔から一緒にやってきたベテランのスタッフでした。
「ホント、ごめん」と真剣に詫びる相手に、高橋はこう返しました。
「勝ったからいいですけど、負けてたらボコボコに……」
冗談半分の言葉です。
本人は別の場面で 「7秒差でも勝ちは勝ちなので、僕は気にしていません」 とも語っています。
ピット作業で1秒でも縮めようとした結果のミスだと理解し、責めませんでした。
勝負の厳しさと、仲間への気遣い。
その両方がにじむエピソードです。
| ピット事件が見せた人柄 | 内容 |
|---|---|
| 走り | 混乱しても冷静に走り切る |
| 言葉 | クルーへ「負けてたらボコボコに」と冗談 |
| 姿勢 | 「勝ちは勝ち」と仲間を責めず |
高橋のキャリアには、苦い夏もありました。
2015年です。
この年、高橋は元MotoGP王者の ケーシー・ストーナー と組みました。
世界王者とのタッグは大きな注目を集めましたが、決勝の序盤でストーナーが転倒し、リタイアに終わります。
豪華な顔合わせが、結果に結びつかなかった一戦でした。
高橋は、本当にさまざまなライダーと組んできました。
大先輩から、経験の浅い海外の若手、そして世界王者まで。
組んだトップライダーは10人を超えます。
さまざまな相手に合わせてチームをまとめる力も、7勝を支えた要素の一つでした。
意外な素顔は、オフの過ごし方にも表れます。
高橋はシーズンオフも、できるだけバイクに乗ってトレーニングをしています。
きっかけは、8耐で組んだ 清成龍一 の誘いでした。
「バイク乗りに行こうって誘ってくださって」
以来、時間があればオフロードバイクに乗るようになりました。
ダートを走り込むことで、ロードレースに生かせる感覚をつかんだといいます。
実際、走りの安定性が増し、タイムも上がったと本人が認めています。
そして、最後にもう一つ。
高橋にこんな質問が向けられたことがあります。
「スプリント」「耐久」「MotoGPマシンに乗ること」のうち、どれが一番好きか、と。
高橋は大きく息を吸ってから、こう答えました。
「MotoGPのスプリントレースが一番です!」
最多勝を誇る8耐ではありませんでした。
好きではないと公言するレースで前人未到の記録を打ち立てる。
その矛盾こそが、高橋巧という選手の、人間的な魅力なのかもしれません。
引用元 autosport web(2024年7月23日)、Webikeプラス(2024年7月24日)、Honda.Racing「ストラテジー編」、モーサイ(2024年12月2日)、Yahoo!ニュース(辻野ヒロシ)
第6章 2026年、好きじゃない夏へ
2025年の7勝目で、高橋巧は誰も届かない場所に立ちました。
では、王者の物語はそこで完結したのでしょうか。
そうではありません。
2026年、高橋はまた灼熱の鈴鹿へ戻ります。
今度は、二つの大きな記録がかかっています。
一つは、チームの 5連覇 です。
ホンダのワークスチーム 「Honda HRC」 は、2022年から鈴鹿8耐を勝ち続けてきました。
2026年に勝てば、前人未到の5連覇となります。
もう一つは、高橋自身の 8勝目 です。
すでに歴代最多の7勝を持つ高橋にとって、勝利はそのまま自分の記録を更新することを意味します。
本人が語っていた「記録を伸ばしていきたい」という言葉が、また試される夏です。
第47回大会の決勝は、 2026年7月5日 に予定されています。
| 2026年・二つの記録への挑戦 | 内容 |
|---|---|
| チーム記録 | 前人未到の5連覇 |
| 個人記録 | 高橋自身の通算8勝目 |
| 決勝 | 7月5日、鈴鹿サーキット |
しかし、この挑戦は順風満帆には始まりませんでした。
当初、Honda HRCは高橋巧、ヨハン・ザルコ、そして ジョナサン・レイ という3人体制を発表していました。
ザルコは2024年・2025年と高橋とともに勝利を重ねたパートナーです。
レイは2022年以来の復帰で、過去にホンダとカワサキで2度の優勝経験を持つ実力者です。
盤石の布陣に見えました。
ところが、想定外の事態が起こります。
ザルコがMotoGPのカタルニアGPのレース中に転倒し、左膝の靭帯損傷と腓骨骨折という大きなケガを負ったのです。
完治には数か月を要する見込みで、7月の鈴鹿8耐への出場は不可能になりました。
優勝請負人を、本番前に失ったのです。
HRCの対応は素早いものでした。
5月28日、ザルコの代役として ソムキアット・チャントラ の起用を発表します。
チャントラはタイ出身のライダーで、現在はスーパーバイク世界選手権(SBK)にHonda HRCから参戦しています。
Moto3、Moto2、MotoGP、SBKと、ホンダのさまざまなカテゴリーを渡り歩いてきた経験豊富な選手です。
| 揺れた2026年の布陣 | 内容 |
|---|---|
| 当初 | 高橋・ザルコ・レイの3人 |
| アクシデント | ザルコが負傷で出場不可に |
| 対応 | 5月28日、代役にチャントラを起用 |
| 新体制 | 高橋・レイ・チャントラ |
こうして2026年のHonda HRCは、高橋巧、ジョナサン・レイ、ソムキアット・チャントラという3人で5連覇に挑むことになりました。
チームの軸は、言うまでもなく高橋です。
最多勝の経験と、鈴鹿を知り尽くした走り。
その存在が、急きょ編成し直したチームの中心になります。
ここで、この記事の最初に戻りたいと思います。
高橋は 「8耐は好きなレースじゃない」 と公言してきました。
身体的に辛く、好きにはなれない。
それでも、勝ってしまったから辞められない。
記録を伸ばすために、また出なければならない。
その矛盾を抱えたまま、王者は7年もの間、鈴鹿で勝ち続けてきました。
暑さに弱いと自覚しながら、誰よりも暑さに備える。
世界の頂点には届かなかったけれど、母国で前人未到の記録を打ち立てた。
好きではないと言いながら、誰よりも勝ってきた。
高橋巧という選手は、こうした対比の積み重ねでできています。
数字だけでは決して見えてこない、人間らしい奥行きがそこにあります。
2026年の夏、高橋はまた 「好きじゃない」 レースに臨みます。
5連覇と8勝目。
新たな記録を懸けて、絶対王者の戦いは続きます。
引用元 Honda企業情報サイト(2026年5月11日)、ライディングスポーツ(2026年5月28日)、webオートバイ、Car Watch

