「夢か、奇跡」── 中須賀克行 2012バレンシアGP、14年後に掘り起こす一日

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第1章:「3位」ではなく「2位」だった ── 14年越しの小さな訂正から

ながら聞き(全文朗読)

2026年5月10日、フランスGP。小椋藍が3位表彰台を獲得した瞬間、日本中のレースファンが同じフレーズを目にすることになった。「2012年バレンシアGPの中須賀克行(ヤマハ)以来、14年ぶりの日本人MotoGP表彰台」──。

このフレーズ自体に異論はない。ただ、14年という時間は、それなりに記憶を曇らせていて、SNSやニュースサイトのコメント欄にはいくつか細かい混乱も見られる。中でも目立ったのが「中須賀も3位だったらしい」という書き込みだった。

正しくは、中須賀克行 2012年バレンシアGP MotoGPクラス決勝、2位である。

順位ライダーチームマシン
1位ダニ・ペドロサレプソル・ホンダRC213V
2位中須賀克行ヤマハ・ファクトリーレーシングYZR-M1
3位ケーシー・ストーナー(引退レース)レプソル・ホンダRC213V

中須賀はあの日、現役最終戦のストーナーの上の段に立っていた。

この記事で取り上げたいのは、霞んだ14年前のあの一日のほうだ。ヤマハのテストライダーが、16番グリッドから、スリックタイヤで、王者ロレンソが転んでクラッチローが転んだレースで、ストーナーの引退花道の上の段に立ってしまったあの日のことを、当時の日本語・英語・スペイン語の記事を渉猟して、14年後だから見えてくる話も含めて、もう一度組み直してみたい。


第2章:2012年最終戦、揃いすぎた役者たち

2012年11月11日、スペイン・バレンシアのリカルド・トルモ・サーキット。シーズン最終戦の役者は、これ以上ないほど揃っていた。

グリッドライダー背景
1番手(PP)ダニ・ペドロサ母国スペイン、シーズン7勝目を狙う絶好調
2番手ホルヘ・ロレンソ同じく母国、前戦豪州GPで王座決定の新王者
3番手ケーシー・ストーナー現役最終戦、通算69表彰台・38勝の宇宙人
………………
16番手中須賀克行負傷スピーズの代役、ヤマハ・テストライダー

ポールポジションはダニ・ペドロサ。シーズン7勝目を狙う絶好調の母国スペイン人で、ここまで直近8戦のうち5勝。タイトルはすでに前戦オーストラリアGPでホルヘ・ロレンソが決めていたが、ペドロサのランキング2位は揺るがず、最終戦は勝つためだけのレースだった。

フロントロー2番手には、新王者ホルヘ・ロレンソ。同じく母国での凱旋レースで、しかもこの2012年シーズン、彼は完走したレースではすべて1位か2位に入っていた。最終戦もその記録を伸ばしに来ていた。

3番手グリッドには、ケーシー・ストーナー。MotoGP王者2回、通算69回の表彰台、38勝。「宇宙人」がここで現役を終える。ストーナーのチームはピットウォール越しに「Going fishing(釣りに行ってくる)」と書いた看板を掲げて、エースの引退を見送る準備をしていた。

ペドロサの母国凱旋、ロレンソの新王者凱旋、ストーナーの引退。このどれか一つだけでも最終戦の主役になり得る材料が、全部このバレンシアに集まっていた。福岡県北九州市出身の31歳のテストライダーの名前が、その日の終わりに世界中の見出しを飾ると予想した者は、おそらく一人もいなかった。

なお、同じ週末のMoto2クラスでは、翌2013年からHRCでMotoGPに上がる19歳のマルク・マルケスが、金曜のシモーネ・コルシとの接触で課された33番グリッドのペナルティスタートから全車を抜いて優勝している。


第3章:テストライダーに回ってきた席

事の発端は2週間前のマレーシアGP(セパン)。ヤマハ・ファクトリーのベン・スピーズが決勝で派手なハイサイドを起こし、鎖骨と肩甲骨をつなぐ靭帯を損傷。手術と10週間のリハビリが必要で、シーズン残り2戦の欠場が決まった。

スピーズは2012年9月の時点ですでに2013年のドゥカティ・プラマック移籍を発表済み。シーズンを通して原因不明のメカニカルトラブルにも泣かされ続けた苦しい1年で、セパンの転倒は事実上、彼のヤマハ・ファクトリーでのキャリアの幕引きになってしまった。

代役には誰が座るのか。アメリカ国内ではスーパーバイクで活躍中のジョシュ・ヘイズをM1に戻せ、というTwitterキャンペーンも起きていた。しかしヤマハが選んだのは、テストライダーの中須賀克行だった。

理由ははっきりしている。

中須賀のMotoGP参戦履歴(2012年バレンシア時点)
2011年 第18戦 バレンシアGPロレンソ負傷の代役6位(ウェット)
2012年 第15戦 日本GP(もてぎ)ワイルドカード参戦9位
2012年 第18戦 バレンシアGPスピーズ負傷の代役このレース

中須賀はその時点でYZR-M1とブリヂストンタイヤを誰よりも知り尽くしていたヤマハ社内の人間で、最高峰クラスでポイントを獲れる日本人ライダーは、当時もう彼くらいしか残っていなかった。

しかも代役指名のタイミングが絶妙だった。中須賀は10月28日の全日本ロードレース選手権最終戦MFJグランプリで、JSB1000クラスの年間チャンピオン(自身2度目)を獲得したばかり。波に乗った状態で世界の舞台へ送り出される形になった。

ただし、ヤマハ側の本音は明確で、あくまでMotoGPマシン開発のためのデータ収集が目的だった。「スピーズの代役で、ヤマハ開発用のデータを集めるためのテストライダーの仕事。それ以上でも以下でもない。違う結果を期待するのは難しかった」──コルセディモト誌(Corsedimoto、伊)の表現はやや辛口だが、おそらく現場の空気もそれに近かった。

予選、中須賀のグリッドは16番手。これも「まあ、こんなところだろう」というポジションだった。


第4章:土曜の夜、ほとんど誰も知らないこと

ここからが、今回いちばん書きたかった話だ。

レース前日、土曜日の夜。バレンシアでは予選が終わったあとの時間、地球の反対側の日本で、中須賀克行の第二子・ハルト(Haruto)が誕生している

中須賀克行の「バレンシア週末」タイムライン(2012年11月)
11月9日(金)フリープラクティス
11月10日(土)予選、16番手獲得
11月10日(土)夜日本で第二子・ハルト誕生の報
11月11日(日)正午過ぎ決勝スタート
11月11日(日)午後2位表彰台

「4度の全日本スーパーバイク・チャンピオンには、もうひとつのお祝いの理由があった──第二子のハルトが土曜の夜に生まれたのだ」と、当時のクラッシュ・ネット(Crash.net、英)はさらりと書いている。モーターサイクルデイリー誌(MotorcycleDaily、米)も「ダブルのお祝い理由」と表現しているし、インドネシア語のサイトでも「バレンシアで走る一日前に生まれた」と紹介されている。

つまり中須賀は、生まれたばかりの息子の顔をまだ見ていない状態で、世界最高峰のグリッドに並ぼうとしていた。電話か、メールか、写真か、何で知らせを受け取ったのかは記録に残っていない。家族はサーキットには来ておらず、北九州にいた。当時は今ほどビデオ通話が普及している時代でもない。

このディテール、当時もちゃんと報じられたのだが、ストーナーの引退とロレンソの新王者凱旋とペドロサのポールが全部詰まった最終戦の中では、ほとんど埋もれてしまった。日本語の報道でもこの「土曜の夜の出来事」に踏み込んだものはほぼ見当たらない。たぶん中須賀自身が、レース後の高揚の中でもあまり積極的には語らなかったのだろう。

ちなみに、14年後の2026年1月に公開されたコルセディモト誌の回顧記事は、このエピソードをさらにドラマチックに脚色している。「朝、彼は二人目の父親になった。午後、彼は負傷したベン・スピーズの代役として呼ばれた」。実際は息子の誕生は前夜なのだが、14年経つと話はこうやって少しずつ盛られていく。それも含めて、このレースは「伝説化」が始まっているということなのだろう。


第5章:「mass confusion」のグリッド

11月11日、日曜日。気温13度、路面温度15度。雨は止んでいたが、路面は濡れていた。ところが、新しく敷き直されたばかりのアスファルトは思った以上に乾きが早く、約62,000人の観客の前で、レース直前まで路面状況は刻一刻と変化していた。

レースは正式に「ウェット」宣言された。ここで少し脱線して、MotoGP特有のスタート前のプロセスを整理しておきたい。

MotoGP決勝前のプロセス(2012年当時)内容
① ピットレーン・オープンライダーがコースに出る
② サイティングラップ(1周)路面状況の「下見」周回
③ グリッド整列スタート位置に並ぶ
④ ウォームアップラップ(1周)タイヤ・ブレーキを温める周回
⑤ グリッドに戻り、決勝スタートチェッカーまで30周

ここで重要なのは、MotoGPの「フラッグ・トゥ・フラッグ」ルール。レースがウェット宣言されていれば、ライダーは決勝中いつでもピットに入って、別タイヤを履いたもう1台のマシンに乗り換えてよい。さらに2012年当時のルールでは、ウォームアップラップ後にピットに入って予備マシンに乗り換えても、「ピットレーンスタート」になるだけで追加のペナルティはなかった(現在のような「ライドスルーペナルティ」の併用は2018年以降の話だ)。

つまり、レース直前の最後の最後まで、「スリックで行くか、ウェットで行くか」をライダーとチームは選び続けることができた。──そして2012年バレンシアGPは、その選択肢がフルに活用されたレースだった。

バレンシア2012 スタート時のタイヤ選択主なライダー
ウェットタイヤでグリッドからスタートほとんどの選手(ストーナー、ロッシ、ドヴィツィオーゾ、エスパルガロほか)
スリックタイヤでグリッドからスタートロレンソ、中須賀、ブラドル(3名のみ)
ウォームアップラップ後にピットへ → スリックに乗り換えてピットレーンスタートペドロサ、ヘイデン、クラッチロー、バウティスタ(4名)

「スタートの20分前、22チームのクルーは完全に錯乱していた──スリックか、ウェットか、それとも両方か」──モーターサイクル・ドットコム誌(Motorcycle.com、米)の表現はリアルだ。ロレンソのクルーチーフ、ラモン・フォルカダにいたっては、最初のサイティングラップ後にタイヤ交換のためチームがバタついた際に頭部に打撃を受けていた。決勝開始前から、すでにヤマハ陣営は何かがおかしかった。

ペドロサもピットレーンスタートの直後、まだ濡れていたピット出口でリアタイヤをスピンさせ、危うく転倒しかけている。これがポールシッターの決勝の始まりだから、もう何も普通ではない。「『大混乱(mass confusion)』を辞書で引くと、たぶんこのレースのグリッドの写真が載っているだろう」と同誌が皮肉まじりに書いたのも、当然の感想だった。

その混乱の中で、16番グリッドの中須賀克行は、新王者ロレンソと同じ博打を打っていた。16番グリッド、スリックタイヤ。ヤマハ・ファクトリーの2台が、揃ってグリッド上で、乾いていく路面を待っていた。


第6章:1周目11位、4周目4位 ── 本人は順位を知らなかった

シグナルが消えた。

最初の数百メートルでホールショットを奪ったのは、意外な男だった。10番手スタートのアレイシ・エスパルガロが、ウェットタイヤを履いたCRTマシン(アプリリアART)で、ファクトリー勢を抜き去って先頭に立った。

1周目を終えた段階の順位
1位アレイシ・エスパルガロ(CRT・ウェット)
2位アンドレア・ドヴィツィオーゾ
3位ケーシー・ストーナー
4位バレンティーノ・ロッシ
5位エクトル・バルベラ
6位カレル・アブラハム
7位ジェームズ・エリソン
8位ホルヘ・ロレンソ(スリック)
9位ロベルト・ロルフォ
10位ステファン・ブラドル(スリック)
11位中須賀克行(スリック、16番手スタートから5つアップ)

スリックを選んだロレンソは、慎重なスタートで2番グリッドから一気に8番手まで下がっていた。中須賀は16番グリッドから5つポジションを上げて11位。スリック組はこの時点ではまだ我慢の時間だった。

それが4周目には景色が一変する。「ナカスガサーン」(モーターサイクルデイリー誌などの海外メディアで使われた呼称)は4周目にいきなり4位までジャンプアップしていた。理由は単純で、ウェットを履いていたペドロサ、ロッシ、ストーナー、ドヴィツィオーゾらが次々にピットに入ってスリック装着の予備マシンに乗り換えていたためだ。乾いていく路面で、スリック組がそのまま前に押し出されていく構図ができていた。

ただし、レース中の中須賀本人にはこの全体像が見えていなかった。

「スタート直後は前に人がいっぱいいて、皆がピットに入って順位がごちゃごちゃになってわからなかったから(笑)、とにかく自分の走りに集中した」──ウェブ・スポルティーバ(web Sportiva、日)に掲載された川喜田研のレース後インタビューで、中須賀はそう振り返っている。

これはたぶん、字面で読むよりも実際は深刻な状況だった。順位がわからない、ということは「自分はトップ集団にいるのか、それとも周回遅れになりかけているのか」が判断できない、ということでもある。MotoGPのピットボードは1周に1度しかサインが出ない。次の周のサインを見るまで、自分が誰と何位を争っているのかが不明のまま、路面と相談しながら走り続けなければならない。

モーターサイクル・ドットコム誌は、後にこのレースを振り返って書いている。「(ヤマハの)首脳陣からは『マシンを壊すな』と指示されていたにもかかわらず、彼は5周目には何かの拍子でトップ3を走り、それなりのペースで食らいついていた」。

マシンを壊すな(don’t trash the bike)」──開発データを集めるための代役参戦の、おそらく現場で実際に言われたであろう指示。テストライダーへの社内的な指示としては、ごく真っ当な言葉だ。その指示を聞いて出てきた31歳が、5周目にトップ3を走っている。話としては、もう完全に予定外の方向に転がり始めていた。


第7章:14周目と23周目、二度の幸運

レース中盤、13周目。クラッチローがピットレーンスタートから恐るべきペースで前線に上がってきて、トップ3に飛び込んだ。中須賀は2位を抜かれて3位に落ちる。

周回できごと中須賀の順位
1周目レーススタート11位
4周目ウェット組ピットインで上昇4位
5周目トップ3圏内へ3位前後
13周目クラッチローが前に上がる3位
14周目ロレンソ転倒(ハイサイド)3位(表彰台圏内に確定)
23周目クラッチロー最終コーナー転倒2位(表彰台圏内が2位に上昇)
30周目チェッカー2位フィニッシュ

そして14周目──最初の大事件が起きる。

先頭を独走していたロレンソが、周回遅れのジェームズ・エリソンを抜こうとして、コース上の濡れた部分に進路を取らされた。激しいタンクスラッパーからのハイサイドで、王者はマシンから投げ出された。ロレンソはレース後、「エリソンが僕に気づいたと思った。でも彼はレースライン上から動かなかった。抜こうとして、濡れた路面でミスをした。大きなハイサイドだった」と語っている。

新王者の転倒で、ペドロサが先頭、クラッチローが2位、中須賀が3位。表彰台の3つの席のうち、一番下に中須賀の名前が入った。

しかし、そのまま3位でゴールできる保証はどこにもなかった。クラッチローは中須賀を引き離して走り、自己ベストの2位とシーズン3度目の表彰台を狙う位置にいた。中須賀は2位とのギャップを縮められず、表彰台争いから少しずつ取り残されつつあった。

23周目──二度目の事件が起きる。

クラッチローは最終コーナー進入で転倒。本人いわく、目の前に2位フィニッシュとシーズン3度目の表彰台が見えていた瞬間だった。「彼は2位を確実視されていた位置から、残り7周でフロントを失った。一瞬、暴走するバイクと並走するように見えた後、バイクはバリアへと飛び込んだ。幸いケガはなかった」。

これで中須賀の順位は、3位から2位へ繰り上がった。レース展開だけを見れば、これは中須賀本人が抜いた表彰台ではなく、前を走っていた2人が勝手に転んで降りていったレースだった。ただし、雨が乾いていく路面で、スリックタイヤで、30周のうち23周を一度もミスせず走り続けた、という前提があってのこと。「戦略、そしてヤマハを完璧に操る技量と、限界で走れる能力もあった」──コルセディモト誌がのちに書いた一行が、たぶんいちばん正しい総括だ。

そして本人は、この時点でもまだ自分が2位を走っていることを知らなかった。

ピットからのサインボードで順位を理解したのは、ラスト5周になったころ。「後ろとのタイム差が縮まらなかったので、そのアドバンテージを使いながらペースを調整していた。サインボードを出す皆の喜び具合を見て」気づいたという。

ピットボードに「2」の数字を見て、それを掲げるメカニックの表情がいつもより輝いていることを察して、初めて自分の位置を理解する。これがMotoGPのテストライダーの、最終戦でのレース体験だった。


第8章:「夢か、奇跡」── 各国メディアが書いた一日

レース後の表彰台。

順位ライダーマシンタイム差
1位ダニ・ペドロサHonda RC213V48’23.819
2位中須賀克行Yamaha YZR-M1+37.661
3位ケーシー・ストーナー(引退)Honda RC213V+1’00.633
4位アルバロ・バウティスタHonda+1’01.811
5位ミケーレ・ピロFTR(CRT)+1’26.608

中須賀がストーナーに対してつけたリードは、なんと23秒だった。

ペドロサのすぐ左隣、2位の段に、ヤマハ・ファクトリーのテストライダーが立っていた。モーターサイクル・ドットコム誌は「中須賀は表彰台のセレモニーでも、その後の記者会見でも、目に見えて圧倒されていた」と書いている。

英語圏のメディアに、中須賀のコメントが残っている。

予選があまり良くなかったのに表彰台に立てたなんて、夢か奇跡みたいだ。MotoGPでこんな特別なチャンスをくれたヤマハに感謝したい。本当に最高だった」

夢か、奇跡(a dream or a miracle)」──このフレーズが、英語、スペイン語、イタリア語の各国メディアでそのまま見出しに使われていく。

各国メディアの中須賀評(2012年〜2026年)
クラッシュ・ネット(英)“Nakasuga talks ‘miracle’ MotoGP podium”
オートスポーツ・ドットコム(英)“Yamaha says Nakasuga podium buoyed Spies’ crew”
コルセディモト(伊)“the magic that stunned the stars(スターたちを呆然とさせた魔法)”
モトールパシオン・モト(西)“el emocionado piloto nipón(感極まった日本人ライダー)”
モトグランプリ・モトリオンライン(西)“el piloto de pruebas japonés de los tres Diapasones(3つの音叉ヤマハの日本人テストドライバー)”

ヤマハ・ファクトリーレーシングのチームディレクター、マッシモ・メレガッリのコメントもいい。

「ナカスガサーンにとっておとぎ話のような一日(fairytale day)だった。彼の偉業を私たちはとても誇りに思うし、心から嬉しく思う。厳しいシーズンを送ったベンのクルーにとっても素晴らしい結果だった。彼らはこの表彰台に値する。彼ら全員の今後を祈っている」

「彼ら全員の今後を祈っている」というのは、シーズン限りでドゥカティ・プラマックに移籍する負傷中のスピーズと、そのクルーたちへの別れの挨拶でもあった。シーズンを通じて表彰台に一度も上がれなかったクルーが、エースの代役に座った日本人によって最後の最後に救われた、という構図。これはこれで、ちょっとした人情噺だ。

そのスピーズ本人もTwitterに反応している。「もちろん自分が乗っていたかったよ。でも僕のクルーと中須賀に最高の仕事だった、と言いたい。今日は『生き残る』ことが全てだった!」と書いている。負傷で欠場中の選手がライバルの代役を称えるのは、当然のようで実は当然ではない。スピーズの人柄がこの一言に滲んでいる。

そして、もうひとつ。オートスポーツ・ドットコムの記事に、当時のレース直後、ほとんど誰も気づいていなかった事実が一行だけ書き添えられていた。

もし中須賀が表彰台に上がっていなかったら、1985年以来初めて、日本人が一度も表彰台に上がらないグランプリシーズンになっていた

これは重い指摘だ。1985年から2012年まで27年間、毎シーズン必ずどこかのクラスで日本人ライダーが表彰台に立ち続けていた──その連続記録の最終ラップで、最後のお守りのように転がり込んだのが中須賀のこの2位だった。当時はそれほど大きく取り上げられなかったが、後から見れば、これは日本人ロードレースの戦後史の節目を象徴する一枚の表彰台でもあったのだ。

スペイン語圏のメディアも、もちろんこの日本人を見逃していない。モトールパシオン・モト誌は中須賀を「感極まった日本人ライダー(el emocionado piloto nipón)」と書き、レースを「混沌と土壇場の賭けが支配した一日(dominada por el caos y las apuestas arriesgadas de última hora)」と表現した。モトグランプリ・モトリオンラインでは、中須賀のことを「3つの音叉メーカー(ディアパソン=ヤマハ)の日本人テストドライバー」と紹介している。スペイン語で音叉を「ディアパソン」と呼ぶ言い回しの優雅さに、14年経って読み返してもちょっとほっこりする。


第9章:14年後だから見える、二つのこと

このレースが14年経った今、改めて見えてくるものが二つある。

ひとつは、このたった一枚の表彰台が、結果として日本人MotoGPの灯を14年間ひとりで支え続けてしまったということ。

レース当日の中須賀はまだ31歳。これからまだ何度かMotoGPで上位を狙えるチャンスはあるだろう──と、本人もヤマハも、おそらくそう思っていた。実際、中須賀はその後も2013年から2018年まで毎年、日本GPにワイルドカードで参戦を続けている。

中須賀の2012年以降のMotoGP参戦
2013年 第17戦 日本GPYSPレーシングチーム11位
2014年 第15戦 日本GPヤマルーブ・レーシングwith YSP12位
2015年 第15戦 日本GPヤマルーブ・ヤマハ・ファクトリーレーシング8位(キャリアハイ)
2016年 第15戦 日本GP同上完走
2017年 第15戦 日本GP同上完走
2018年 第16戦 日本GP同上完走

だが、表彰台にはもう一度たりとも届かなかった。

そして中須賀のあと、日本人のMotoGP表彰台は途絶えた。ヤマハ自身が引退発表後にまとめた特設ページで「中須賀選手が表彰台に立って以降、2025年シーズンを終えた時点でMotoGPの表彰台に立った日本人ライダーは現れていない」と書いている。

つまり、テストライダーの代役として、雨でロレンソとクラッチローが転んだレースで偶然のように転がり込んだあの一枚の表彰台が、それから14年間、ずっと日本人最後の表彰台として残り続けた。本人もたぶん、そんな未来までは想像していなかった。2026年5月、小椋藍がル・マンの3位の段に上がるまで、ナカスガサーンの2位は孤独な記録だった。

もうひとつは、中須賀本人にとって、このレースが「最も印象に残る一戦」ではなかったということ。

2026年3月、東京モーターサイクルショーのヤマハブースで引退を表明した中須賀に、その後の単独インタビューで複数のメディアが「最も印象に残ったレース」を尋ねている。

引退発表後の中須賀「最も印象に残るレース」(複数メディアより)
MotoGPでの一戦2012年最終戦バレンシアGP(2位)
鈴鹿8耐2015年(ヤマハファクトリー復活初年度・優勝)
最終的に挙げた一戦2007年 全日本ロードレース第4戦オートポリス(JSB1000初優勝)

ヤング・マシン誌(Young Machine、日)のインタビューで、彼がMotoGPの一戦として挙げたのは確かにこの2012年バレンシアGPだった。鈴鹿8耐の苦い記憶もいくつか語られた。しかし数多くの激闘を経て中須賀が最終的に選んだのは、2007年の全日本ロードレース選手権・第4戦オートポリス──地元九州での、JSB1000クラス初優勝のレースだった。

理由がいい。

「JSB1000で初めて勝ったレースですし、YSPレーシングに入って2年目、やっとプロとしてやっていける自信がついた頃でした。父ちゃんは峠を走っていて、本当はレースをやりたかったけれど、環境が整わずできなかった。その思いから僕にバイクを勧めてくれて、親の夢を背負いながらも、それがいつしか自分の夢となり、二人三脚で戦ってきましたから。なかなか結果を出せない時期も『こいつはすごいライダーになる!』と信じて支援してくれた」

中須賀の父・克次さんは、2004年に癌で亡くなっている。ポケバイ時代から中須賀を支え、全日本GP250時代もメカニックとして共に戦ってきた。表彰台で中須賀が必ず空を指さすのは、克次さんへの報告を欠かさないため。バレンシア2012の表彰台でも、彼はもちろん空を指さしていた。

2007年オートポリスでの初優勝は、克次さんが亡くなって3年目のレースだった。「プロとして勝つ姿やチャンピオンを獲った姿を直接見せることはできませんでしたが、きっとどこかで見ていてくれたと思っています」──中須賀がそう答える理由が、ここにある。

最高峰クラスの表彰台より、地元九州での初優勝のほうが大事──というのが、引退を控えた45歳の中須賀の率直な序列だ。それは決してバレンシア2012の価値を下げる話ではない。むしろ、これほど立派な記録を持っているライダーが、自分にとって本当に大事だったレースをきちんと一番上に置けている、ということでもある。

2026年シーズンを最後に、中須賀克行は引退する。2025年シーズンに13回目のJSB1000王座を獲得した直後、44歳の絶対王者は静かに最後の年を宣言した。同じシーズンに、小椋藍が14年ぶりの日本人MotoGP表彰台に上がった。「14年ぶり」というフレーズが報じられるたびに、14年前の一日にも、もう一度光が当たる。

ナカスガサーン、ミラクル。土曜の夜に父になった男が、日曜の午後、世界の表彰台でペドロサの隣に立った日のことを、ここに記録しておく。