はじめに:たった20メートルの歩行がモータースポーツの歴史を変えた
1969年6月14日、フランス・ル・マン。世界最古の耐久レース「ル・マン24時間」のスタートラインで、一人のドライバーが奇妙な行動に出ました。
他の全員が猛ダッシュする中、ただ一人ゆっくりと歩いたのです。
歩いた距離は、およそ20メートル。
このたった20メートルの歩行が、半世紀近く続いた伝統的なスタート方式を終わらせ、モータースポーツにおける安全の歴史を変えることになります。
歩いた男の名は、ジャッキー・イクス。当時24歳のベルギー人ドライバーでした。本記事では、なぜ彼はそんな行動に出たのか、そしてその結果何が起きたのかを、時系列で丁寧に追っていきます。
1960年代モータースポーツ:「死が隣に立っていた時代」
ル・マン24時間レースは、フランス中部の町・ル・マン近郊にあるサルト・サーキットで毎年開催される、世界最古にして最も過酷な耐久レースの一つです。全長約13キロのコースを、ドライバーと車が24時間休むことなく走り続けます。1923年に始まったこのレースは、1969年の時点ですでに半世紀近い歴史を積み重ねていました。
その1969年、ジャッキー・イクスは「歩く」というただそれだけの行動でレース史を変えることになります。しかしこの行動の意味を理解するには、まず当時のモータースポーツがどのような世界だったかを知る必要があります。
1960年代のモータースポーツは、現代とはまったく異なる世界でした。当時のレースでは、安全というものが今とは比べものにならないほど軽視されていたのです。ほぼ毎週末、どこかのサーキットで深刻な事故、死亡事故が起きている。それが普通の時代でした。
この時代を生きたイクスは、後年こう語っています。
「週末のレースに出発するとき、誰もが月曜日に帰れないかもしれないと分かっていた」
今の感覚からすれば、にわかに信じがたい話でしょう。では、彼らはそれを恐れていたのか。英雄として命を賭けているという自覚があったのか。イクスはこうも言っています。
「私たちは自分たちをヒーローだとも、剣闘士だとも思っていなかった。危険やリスクは問題ではなかった。最高でありたい、勝ちたい、ただそれだけのために走っていた。20歳のときは命の儚さも短さも知らない。だから誰も自分を止められなかった」
若さが持つ無敵感、自分だけは大丈夫という根拠のない確信。それが彼らをサーキットへと向かわせていました。しかしその確信は、やがて一つの出来事によって打ち砕かれることになります。
ウィリー・マイレスの悲劇:イクスを突き動かした前年の事故
イクスがあの行動に出る1年前、1968年のル・マンでのことです。
ウィリー・マイレスというベルギー人のレーシングドライバーがいました。イクスにとっては、同じ国を背負って走る仲間のような存在です。
1968年のル・マン24時間。スタートのフラッグが振られた瞬間、マイレスは他のドライバーと同じように走り、フォードGT40に飛び乗りました。ところが、シートベルトをきちんと締める時間がありませんでした。ドアも、完全には閉まりきっていなかった。それでも彼は走り出しました。
ル・マンの中で最も長く、最も速度が乗るミュルサンヌ・ストレート。そこで車はコントロールを失い、激しくクラッシュします。マイレスは長い昏睡状態の後、なんとか生還しました。しかし、レーサーとしてのキャリアは、そこで完全に終わりました。
シートベルトを締めていれば。ドアがきちんと閉まっていれば。防げた事故だったかもしれない。しかし当時のル・マン式スタートでは、そんな時間は与えられていなかったのです。
ル・マン式スタートとは何だったのか
ル・マン式スタートとは、スターターのフラッグが振られるとドライバーたちがコースの反対側から一斉に走り出し、自分の車に飛び乗ってエンジンをかけ、そのままスタートを切るという方式です。シートベルトを締める時間など、構造的に存在しません。一秒でも遅れれば、それだけ順位を落とす。そのプレッシャーが、ドライバーに安全を後回しにさせていました。これが、何十年もル・マンで続いてきた「伝統」だったのです。
ちなみに、この「伝統」を受けてポルシェはある工夫を施していました。ドライバーが乗り込みながら左手でエンジンをかけ、同時に右手でギアを入れられるように、イグニッションキーをステアリングの左側に配置したのです。数秒でも早くスタートを切るための、メーカーレベルの対応でした。この設計は、現代の市販ポルシェにも受け継がれています。今でもポルシェのキーが左にあるのは、この名残です。
マイレスのその後
マイレスの話に戻ります。事故から1年以上が経った1969年9月2日、彼は自ら命を絶ちました。レーサーとしての人生を突然奪われた男が選んだ、悲しい結末でした。
レースそのものの事故というより、スタートの「手順」によって引き起こされた悲劇が、一人の人間の人生をそこまで追い詰めた。イクスはこの一連の出来事を、心に深く刻み込んでいました。同じベルギー人として。同じレーサーとして。
そして1969年のル・マンが近づいたとき、イクスの中で一つの確信が固まっていきます。「次のル・マンでは、自分は何かをしなければならない」。その「何か」が、20メートルの歩行でした。
1969年6月14日午後2時:「歩く男」ジャッキー・イクス
1969年6月14日、フランス・ル・マン、午後2時。
この年のスタートが通常より2時間早い午後2時だったのには理由があります。この日、フランスでは大統領選の決選投票が行われており、ACO(ル・マンの主催団体)が観客がレースを楽しんだ後でも投票に間に合うよう、スタート時間を前倒ししていたのです。
スタートラインには45台の車が並び、コースの反対側にはドライバーたちが一列に立っていました。観客はおよそ40万人。ル・マン史上でも屈指の大観衆が、このスタートを見守っていました。
フラッグが振られた瞬間、ドライバーたちは一斉に走り出しました。全員が、走りました。
一人を除いて。
ジャッキー・イクス。24歳のベルギー人ドライバーは、走りませんでした。ゆっくりと、歩いたのです。
40万人の観客が見ている前で。世界中のカメラが回っている前で。他の全員が猛ダッシュしている中で、一人だけ歩いた。
この光景を想像すると、鳥肌が立ってきます。どれだけの勇気が要ったか。あるいはイクスにとっては、勇気というより当然のことだったのかもしれません。それでもやはり、勇気でしょう。独りだけ周囲と異なる行動をとったのですから。
イクスはGT40に静かに乗り込み、シートベルトを丁寧に締めました。そしてエンジンをかけ、発進しました。全車中、最後尾。予選では14位だったのに、さらに後退してのスタートです。
「もちろん誰にも予告しなかった。事前に言っていたら、レース開始前にモーターホームに閉じ込められていただろう」と、イクスは後に語っています。
チームにも、仲間にも言わなかった。完全に一人で決め、一人で実行した「抗議」でした。
ところでイクスはこの「歩き」について、後のインタビューでユーモアたっぷりにこう振り返っています。「人間が月を歩くと聞いていたので、自分もル・マンを歩こうと思った」。1969年といえば、7月にアポロ11号が月面着陸を達成した年。イクスの「歩き」は6月、月面歩行はその翌月。同じ年に、人類史上初の月面歩行と、ル・マン史上最も有名な「歩き」が起きていたわけです。
イクスが歩いた距離は、約20メートル。たったの20メートルですが、この20メートルが持つ意味は計り知れないものでした。そしてイクスが歩いてスタートを切った直後、まさに彼が恐れていたことが、コースの上で現実になります。
開幕1周目で証明された抗議の正しさ:ジョン・ウールフの事故
イクスがようやくコースに出た、その瞬間のことです。レースが始まってわずか1周目、コース上で取り返しのつかないことが起きました。
ジョン・ウールフというイギリス人のジェントルマンドライバーがいました。ジェントルマンドライバーとは、いわゆるプロではなく、レースを趣味として楽しむ富裕層のアマチュアドライバーのことです。
ウールフはこのレースに、ポルシェ917で出走していました。917というマシンについては後述しますが、一言で言えば当時最も速く、最も危険なマシンでした。
ウールフはこの車をレース直前に個人購入していました。長丁場のレースには通常コドライバーがいるのですが、ウールフのコドライバーは917の危険性を目の当たりにして出走を拒否。それでもウールフはレースに出ることを選び、ポルシェが急遽、ハーバート・リンゲという経験豊富なドライバーを代役として提供していました。さらにウールフは練習走行でエンジンを壊しており、ポルシェからエンジンを交換してもらって、なんとか決勝に漕ぎ着けた状態でした。
そのウールフが、スタートの瞬間、他の全員と同じように走り、917に飛び乗ったのです。シートベルトを締める時間はなかった。
1周目、メゾン・ブランシュ・コーナー。ウールフの917がクラッシュしました。シートベルトを着用していなかったウールフは車外に放り出され、その場で亡くなりました。
さらに悲劇は続きます。ウールフの車のほぼ満タンの燃料タンクが外れ、後続のクリス・エイモンが運転するフェラーリ312Pの前に落下。エイモンはそれを踏みつけ、燃料が車体下で爆発・炎上しました。エイモンもリタイアを余儀なくされます。
この2つの事故により、レースは2時間にわたって中断されました。
イクスが抗議として歩いた、まさにその理由が、同じレースの1周目に目の前で現実になってしまった。これほど残酷な「証明」があるでしょうか。
イクスはこの事故について、のちにこう語っています。
「私の数歩がル・マンのスタート方式を変えたとは思っていない。残念なことに、変えたのはジョン・ウールフのひどい事故だった。ベルトを締めていなかった彼が、車外に放り出されて命を落とした。その事実が、走ってクルマに飛び乗るスタート方式を終わらせた」
イクスという人間の謙虚さと誠実さが、この言葉によく表れていると思います。
そしてもう一つ。チームマネージャーのデビッド・ヨークは、オートスポーツ誌にこう書きました。「ジャッキー・イクスが通常のスタートをしていたら、あの事故に巻き込まれていた可能性がある」。
歩いたことで最後尾になったイクスは、ウールフの事故現場を避けることができたのです。皮肉なことに、「遅れた」ことがイクス自身を守ることにもなっていました。
ACOはイクスの「歩き」に対してペナルティを検討していました。ル・マン式スタートのルールに明らかに反する行為だったからです。しかしウールフの死亡事故が、その議論を完全に消し去りました。
2時間の中断の後、レースは再開されました。イクスは最後尾から、静かに走り続けます。
フォードGT40 対 ポルシェ917:老兵と最強マシンの24時間
2時間の中断を経てレースが再開されました。ここで少し立ち止まって、1969年のル・マンがどういう勢力図だったのかを整理しておきたいと思います。なぜならイクスの逆転優勝がいかに劇的だったかは、この勢力図を知らないと半分しか伝わらないからです。
圧倒的本命だったポルシェ917
まず、圧倒的な本命はポルシェでした。ポルシェは1968年7月から、たった10ヶ月という驚異的なスピードでまったく新しいマシンを開発していました。それがポルシェ917です。
ポルシェ初の12気筒エンジンを搭載し、チタンやマグネシウムといった希少な素材を多用。最高出力は520馬力。当時のレーシングカーとして、まさに怪物的なスペックでした。
この917を25台製造するため、ポルシェは社運を賭けた投資を行います。記録によれば、この開発と製造がポルシェ社を経営危機に追い込むほどの財政的負担だったといわれています。1台あたりの価格は当時35,000ドル。ポルシェはル・マン初優勝という悲願のために、すべてを賭けていました。
さらにポルシェは917に加えて、908という別のマシンも3台投入。コースに並んだエントリー45台のうち、実に3分の1以上がポルシェという、まさに総攻撃とも言える布陣でした。これだけ聞けば、ポルシェが圧勝するはずでした。
「時代遅れ」と見られていたフォードGT40
一方、イクスが乗るのはフォードGT40でした。このGT40、当時すでに「時代遅れ」と見られていたマシンです。1966年から1969年にかけてル・マンを4連覇した名車ですが、それだけにライバルたちからは研究し尽くされており、新鮮みもなくスペック上はポルシェに劣る、というのが大方の評価でした。
ただ一つ、注目すべき点がありました。イクスが乗るGT40のシャシー番号は「1075」。このシャシーは、前年1968年のル・マンを制したまさにその車体でした。同じシャシーが同年のセブリング12時間でも優勝しており、いわば「勝ち慣れた車」だったのです。
脱落していく917勢
レースが再開されると、予想通りポルシェ917勢が圧倒的な速さを見せました。レース全体の90%の時間で、ポルシェ勢がトップを走り続けます。24時間のうち、実に21時間以上をポルシェがリードしていた。誰もがポルシェの勝利を確信していたはずです。
しかし917には致命的な弱点がありました。空力的な不安定さです。テスト段階から問題は分かっていたものの、根本的な解決策が見つからないままレースに投入されていました。さらにレース直前に可動式の空力ウィングが禁止されるという、規制変更のトラブルも抱えていました。
レースが進むにつれ、917のクラッチ・ベルハウジングが次々に破損し始めます。ワークスの917が、一台また一台と脱落していきました。
翌日の日曜日、午前11時。5周差でレースをリードしていたヴィック・エルフォードとリチャード・アトウッド組の917が、ギアボックスの破損でリタイア。5周差でリードしていたのに。あと数時間でゴールだったのに。ポルシェの総攻撃は、こうして崩れ去っていきました。
ここでトップに躍り出たのが、ジャッキー・イクスとジャッキー・オリバーのGT40です。最後尾からスタートした老兵が、気がつけば先頭に立っていたのです。
ただし、最後の戦いがまだ残っていました。ポルシェ908のハンス・ヘルマンとジェラール・ラルース組が、GT40と同じ周回で追いかけてきていたのです。残り3時間。本当の戦いが、ここから始まります。
最終3時間の心理戦:ル・マン史上最接近の戦い
残り3時間。コース上には実質的に2台しかいませんでした。イクスとオリバーのフォードGT40。ヘルマンとラルースのポルシェ908。24時間という長い戦いの末、最後に残ったのはこの2台だけでした。
両車とも、満身創痍でした。ポルシェ908はブレーキパッドが限界まで摩耗し、さらにエンジンの回転数が400回転も落ちていて、本来の力が出せない状態。一方のGT40も無傷ではなく、排気系にトラブルを抱えていました。
どちらが先に壊れるか。どちらが先にミスをするか。ほぼ五分五分の、消耗戦です。
イクスの「あえて抜かせる」戦略
そしてここから、二人のドライバーによる凄まじい心理戦が始まります。
イクスとヘルマンは、お互いに抜きつ抜かれつを繰り返しました。1周ごとに順位が入れ替わる。20時間以上走った後にこれをやることになった。体力的にも精神的にも、極限に近い状態だったはずです。
とはいえイクスには、一つの明確な戦略がありました。ル・マンで最も長い直線区間、ミュルサンヌ・ストレート。このストレートでイクスがトップに立つと、GT40よりも直線が速いポルシェ908に必ず抜き返されてしまう。ブレーキが壊れかけているとはいえ、直線での速さは908の方が上だったのです。
だからイクスは、あえてヘルマンを先行させました。ストレートでは前を走らせておき、ブレーキングゾーンで差を縮め、コーナーで抜き返す。その繰り返しです。力で押し切るのではなく、相手の弱点を計算してそこに的を絞る戦い方でした。
燃料を巡る揺さぶり
すると、そこへ燃料の問題が浮上します。GT40は1タンクで23周分の燃料しか積めない設定でした。しかし最終ラップの計算をすると、24周目に突入することが分かってきた。つまり、燃料が足りなくなるかもしれない。
そこでイクスは一計を案じました。意図的にスローダウンし、「燃料が切れそうだ」というそぶりを見せたのです。ヘルマンに対する心理的な揺さぶりでした。「もうすぐあの車は止まる」と思わせることで、ヘルマンの判断を狂わせようとしました。
それがどう相手に作用したのかは分かりませんが、とにかく最終ラップ。イクスはミュルサンヌ・ストレートで、例によってヘルマンを先行させました。ヘルマンのポルシェがスーッと前に出る。イクスはブレーキングで抜き返し、そのまま前を譲らなかった。
そしてチェッカーフラッグ。GT40がゴールラインを越えました。
2位のポルシェ908との差は、120メートル。24時間、1万キロ以上を走り続けた末の、120メートル差でした。
この差、今日に至るまでル・マン史上最小の競争差として破られていません。1966年に主催者による演出として「8メートル差」のほぼ同時ゴールがありましたが、演出なしの真剣勝負によるゴール差としては、ル・マン史上最接近のレースとなりました。
最後尾からスタートした老兵が、満身創痍で、史上最も接近した戦いを制したのです。そして優勝の翌朝、誰も予想しなかった出来事が待っていました。
優勝翌朝の皮肉な後日談:シートベルトに命を救われた男
1969年6月15日。イクスとオリバーが表彰台に立ちました。
この優勝にはいくつかの歴史的な記録が重なっています。イクスが乗ったGT40のシャシー「1075」は、前年1968年に続いて2年連続でル・マンを制しました。同一のシャシーがル・マンを2年連続で制するのは、1929年と1930年のベントレー・スピード・シックス以来、史上2例目の快挙でした。そしてフォードにとっては、ル・マン4連覇(1966年〜1969年)の最後の勝利。GT40という車にとっては、これが最後の栄光でもありました。
さて、優勝の翌朝のことです。レースが終わった翌日、月曜日の朝。イクスはパリへ向かっていました。ベルギーのポルシェ販売店から借りたポルシェ911で、一人でハンドルを握っていました。
シャルトルという町の近く。一台の車が、イクスの前に急に割り込んできました。イクスは咄嗟にハンドルを切りましたが、間に合いませんでした。ポルシェ911は電柱に激突し、大破。車は電柱に巻きつくほどの衝撃でした。
誰が見ても、無事では済まないような事故でした。
しかしイクスは、シートベルトを外して自分の足で車の外に出ました。無傷でした。
24時間レースで「抗議の歩行」を行い、翌朝の一般道で、自らの信念を証明した形となりました。シートベルトが、彼の命を守ったのです。これ以上の証明があるでしょうか。
ドラマというのは、本当に予測できない形でやってくるものだとつくづく思います。
ル・マン式スタートはこうして消えた:2段階の改革
イクスの優勝から、レース主催者のACOは動きました。ただし、変化は一度には起きません。2段階の変化でした。
1970年:ベルト着用の義務化
まず1970年。ル・マン式スタートは、形の上では存続しました。しかし一つ、決定的な変更が加えられます。「全ドライバーがシートベルトを着用した状態でスタートする」という新ルールです。
走ってクルマに飛び乗ることは続けられましたが、ベルトは必ず締めてからスタートする。これだけで、1968年のマイレスや1969年のウールフが経験したような事故は、大きく防げるはずでした。
ちなみにこの1970年のル・マンは、ある意味で特別な年でもあります。スティーブ・マックィーン主演の映画『ル・マン』が、まさにこの年に撮影されました。イクス自身もこのレースにフェラーリで出走しています。映画の中には、修正されたル・マン式スタートの映像が残っています。
1971年:完全廃止
そして翌1971年。ル・マン式スタートは完全に廃止されました。ウォームアップラップを1周走った後、グリーンフラッグを合図に一斉スタートするローリングスタート方式へと、完全に移行したのです。
走ってクルマに飛び乗る。その「伝統」が、ここで終わりました。
振り返ると、結局のところ、イクスの歩いた20メートルは優勝という結果があったからこそ伝説になったのだと思います。もし2位だったら、歴史に残らなかったかもしれない。イクス自身も、そのことは十分に理解していました。
「もし2位で終わっていたら、今ごろは、スタートで賢ぶるヒマがあったら、もっと急いでおけばよかっただろう、と言われていたはず」
「ムッシュ・ル・マン」の原点としての20メートル
イクスは1969年の優勝を皮切りに、その後もル・マンを制し続けました。1975年、1976年、1977年、1981年、1982年。合計6回の優勝。2005年にトム・クリステンセンに破られるまで、ル・マン最多優勝記録を保持し続けました。ル・マンに15回出場し、6回優勝。「ムッシュ・ル・マン」という称号は、こうして生まれたのです。
F1でも1969年と1970年の2年連続でチャンピオン争い2位に入り、116戦で8勝。1983年にはパリ-ダカール・ラリーにも優勝し、モータースポーツのあらゆるカテゴリーで結果を出しています。本当の意味でオールラウンドなドライバーでした。2002年には国際モータースポーツ殿堂入りも果たしています。
これだけの記録を持つイクスですが、世界中の人々の記憶に最も深く刻まれているのは、やはり1969年6月14日、20メートルの歩行です。
もちろん、抗議しただけでは伝説にはなりません。歩いて最後尾になり、そのまま負けていたら、誰も覚えていない。歩いて、追い上げて、120メートル差で勝ったから、伝説になった。
20メートル歩いた彼の行動が、モータースポーツの安全の歴史を変えました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

