「公衆便所のベンチレーター」はMR2だった|辛口評論家・三本和彦と“三本節”のすべて

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公衆便所のベンチレーター」。

これは、ある辛口評論家がトヨタMR2のデザインを評した言葉です。

言ったのは、モータージャーナリストの三本和彦(みつもと かずひこ)です。

歯に衣着せぬ毒舌は「三本節」と呼ばれ、自動車メーカーから恐れられました。

しかし三本和彦は、ただの毒舌家ではありません。

この記事では、その経歴と、毒舌の具体的な中身、そして実際に日本車を変えた功績までをたどります。

第1章 三本和彦とは ― 東京新聞の写真記者から自動車評論へ

辛口の自動車評論で知られた人物がいます。

三本和彦(みつもと かずひこ)です。

有限会社三信工房の代表を務めました。

テレビ、ラジオ、雑誌で長く活躍しました。

2022年7月16日、転移性肝がんのため東京都内で亡くなりました。

91歳でした。

項目内容
読み方みつもと かずひこ
肩書モータージャーナリスト
主宰有限会社 三信工房 代表
出身東京都
没年2022年7月16日(91歳)/転移性肝がん

三本和彦の最初の職業は、自動車評論家ではありません。

報道カメラマンでした。

彼は國學院大學で経済学を学びます。

その後、東京写真大学(現在の東京工芸大学)の写真技術科を卒業しました。

そして1956年から1967年まで、東京新聞社の写真部記者を務めます。

ただ、三本和彦はカメラを構えるだけの記者ではありませんでした。

本来は別々の部門である「写真部」と「解説記事」を、兼任していたのです。

そして「これからの日本は自動車の時代を迎える」と主張します。

当時、日本にはまだ自動車が普及していません。

その時代に、週1回の自動車専門記事を、自ら確保して担当しました。

自家用車を持つ人が限られていた時代です。

三本和彦は、そのオーナーを片っ端から取材します。

クルマとオーナーの関係や、エピソードをまとめていきました。

当初は社内で「そんなもの誰が読むんだ」と反発を受けたといいます。

ところが読者の反響は大きく、最終的には紙面の半分を占めるメイン記事にまで発展しました。

東京新聞時代の自動車記事内容
立場写真部記者として「写真部」と「解説記事」を兼任
主張「これからの日本は自動車の時代を迎える」
仕事週1回の自動車専門記事を自ら確保して担当
取材対象当時まだ少なかった自家用車のオーナー
結果当初は社内で反発も、反響が大きく紙面の半分のメイン記事に発展

この東京新聞の時代より前、学生のころに、三本和彦は生涯の親友と出会っています。

後に自動車雑誌『カーグラフィック』を創刊する、小林彰太郎(こばやし しょうたろう)です。

2人が知り合ったのは、アメリカ人に日本語を教えるアルバイトでした。

そのバイト代の使い途に、2人の個性が出ています。

小林彰太郎は、中古のオースチンを買いました。

三本和彦は、報道用カメラの「スピード・グラフィック」を買いました。

項目内容
出会い学生時代、アメリカ人に日本語を教えるアルバイト
バイト代の使い道(小林)中古のオースチンを購入
バイト代の使い道(三本)報道用カメラ「スピード・グラフィック」を購入
その後1962年、小林が創刊した『カーグラフィック』で三本が写真を担当

1962年、小林彰太郎は二玄社から『カーグラフィック』を創刊します。

新車を紹介するだけでなく、クルマそのものを批評する。

日本に本格的な自動車評論を持ち込んだ雑誌でした。

三本和彦は、その創刊当初の写真撮影を担当します。

東京新聞の写真部記者でありながら、自動車の記事を書き、雑誌の写真も撮る。

三本和彦は、こうしてクルマの世界に深く入っていきました。

その三本和彦がテレビの司会者として全国に知られるのは、1977年からです。

ただ、そこに至る道のりは、平坦ではありませんでした。

この章のまとめ
三本和彦辛口で知られたモータージャーナリスト。2022年に91歳で逝去
出発点は写真最初の職業は東京新聞の写真部記者(1956〜1967年)
東京新聞の自動車記事写真部と解説記事を兼任し、週1回の自動車記事を自ら担当
小林彰太郎日本語教師のアルバイトで知り合った親友。『カーグラフィック』創刊者
1962年小林が創刊した同誌の写真撮影を三本が担当
引用元・参照元
日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録)
東京新聞「三本和彦さん死去 モータージャーナリスト」(2022年7月21日)
自動車情報誌「ベストカー」ベストカーWeb「【訃報】三本和彦氏がご逝去されました」(2022年7月17日)
Wikipedia「三本和彦」
Wikipedia「小林彰太郎」
Wikipedia「カーグラフィック」

第2章 評論家になる前 ― 東京新聞退社と世界最長ラリー

三本和彦は、写真記者からすぐに評論家になったわけではありません。

間に、いくつもの異色の経験が挟まっています。

まず、東京新聞を辞めた経緯から見ていきます。

1967年10月、三本和彦は東京新聞社を退社します。

きっかけは、会社との対立でした。

東京新聞社は中日新聞社と合併し、社風が大きく変わります。

当時の三本和彦は、労働組合のトップを任されていました。

会社側との折り合いは、一段と悪化していきます。

最終的に三本和彦は、「以後5年間は写真関係の仕事をしない」という契約書を書かされ、新聞社を引退しました。

こうして、自動車分野のフリージャーナリストが誕生します。

しかし、しばらくは厳しい日々が続きました。

東京新聞退社の経緯内容
時期1967年10月
背景中日新聞社との合併で社風が変化
三本の立場労働組合のトップを任されていた
退社の条件「以後5年間は写真関係の仕事をしない」と契約書を書かされる

そんな折、三本和彦に思わぬ話が舞い込みます。

国外のラリーに参戦してみないか」という誘いでした。

参戦したのは、「ロンドン-シドニー・マラソン」という過酷な世界ラリーです。

英国から豪州まで、車と船を使って走り続けます。

期間は3週間に及びました。

三本和彦は、プロのラリードライバーとその助手の3人で挑みます。

想像を超える難関を、昼も夜も走り続けて突破しました。

そして、なんとか完走にこぎつけます。

ただし、惜しくもタイムアウトで入賞を逃しました

この壮絶な体験は、後の運転技術の基礎になります。

実際にラリーを走ったという事実が、評論家としての信頼性を支えました。

この体験は、1冊の本にもなりました。

世界最長ラリーに挑戦して』(二玄社)です。

もとは『カーグラフィック』に連載され、大きな反響を呼びました。

この記事は大宅壮一賞の最終選考にまで残ります。

「専門用語が多い」という理由で入賞は逃しました。

当時はそれだけ、自動車用語が世に馴染んでいなかったということです。

ロンドン-シドニー・マラソン内容
コース英国から豪州まで、車と船を使用
期間約3週間
体制プロのラリードライバーと助手との3人
結果完走。ただしタイムアウトで入賞を逃す
記録著書『世界最長ラリーに挑戦して』(二玄社)。大宅壮一賞の最終選考に残る

その後、三本和彦は板金工場に入社します。

この工場は、一般の板金加工だけではありませんでした。

いすゞ自動車関係の受注や、モーターショーに出品する車も手掛けていました。

三本和彦は、ここで作り手の経験を積みます。

自動車の設計や仕組みだけではありません。

エンジンルームや室内のインテリアデザインにまで、知識を広げました。

つまり三本和彦は、クルマを「作る」「走らせる」「撮る」を、すべて経験した評論家でした。

三本和彦の異色の土台内容
作る板金工場で、いすゞ車やモーターショー出品車の製作に関わる
走らせる世界最長ラリー「ロンドン-シドニー・マラソン」を完走
撮る東京新聞の写真部記者、『カーグラフィック』の写真撮影
この章のまとめ
1967年10月退社合併による社風の変化と会社との対立で東京新聞を退社
世界最長ラリーロンドン-シドニー・マラソンを完走、タイムアウトで入賞は逃す
『世界最長ラリーに挑戦して』体験を本にまとめ、大宅壮一賞の最終選考に残る
板金工場いすゞ車やショー出品車を手掛け、作り手の知識を得る
作る・走らせる・撮る3つすべてを経験した、異色の評論家だった
引用元・参照元
日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録)
Wikipedia「三本和彦」

第3章 「新車情報」という“ゲリラ番組”

三本和彦の代名詞となった番組があります。

テレビ神奈川(tvk)の「新車情報」です。

放送開始は1977年7月6日でした。

この番組の成り立ちが、すでに異例でした。

1976年頃、テレビ神奈川は経営難に陥っていました。

当時の役員が三本和彦に、「予算をなるべくかけないで番組を作りたい」と相談します。

そこで三本和彦は、「新車発表会を番組にすればよい」と企画を持ち込みました。

これが「新車情報」の出発点です。

番組の成り立ち内容
放送局テレビ神奈川(tvk)/独立UHF局
当時の状況1976年頃、tvkは経営難
きっかけ役員が三本に「予算をかけずに番組を」と相談
三本の企画「新車発表会を番組にすればよい」

ここで、ひとつの疑問がわきます。

なぜ、大手のキー局ではこの番組ができなかったのか、です。

理由は、スポンサーにありました。

キー局にとって、自動車メーカーはCMを打ってくれる最上得意客です。

その客を、番組で答えに窮するほど問い詰めることはできません。

だからテレビ神奈川は、三本和彦にこう条件を出します。

スポンサーを自分で見つけてこい」というものでした。

悩んだ三本和彦が駆け込んだのが、曙ブレーキ工業の社長でした。

社長は「金は出すが、番組内容に口出しはしない」という約束で、音頭をとってくれます。

こうして、神奈川県に本社や事業所を構える部品メーカーを中心に、約40社のスポンサーが集まりました

メーカー本体を叩けるよう、スポンサーは部品メーカーで固めたのです

なぜキー局ではできなかったか内容
キー局の事情自動車メーカーはCMを打つ最上得意客で、番組で問い詰められない
tvkの条件「スポンサーは自分で見つけてこい」
協力者曙ブレーキ工業の社長が「金は出すが口出ししない」と音頭
スポンサー神奈川の部品メーカーを中心に約40社

この番組を、三本和彦は自ら評しています。

「いつでも他の番組に取って代えられる“ゲリラ番組”であり、進行や方式を大きく変えない“偉大なるマンネリ番組”である」。

しかし、その“ゲリラ番組”は強さを発揮します。

独立UHF局の番組でありながら、最大で全国14局にネットされました。

tvkの看板番組となり、放送期間は27年9ヶ月に及びます。

放送回数は1448回を数えました。

tvkの制作番組としては、歴代2位の長寿番組です。

新車情報のデータ内容
放送期間1977年7月6日〜2005年4月3日
期間の長さ27年9ヶ月
放送回数1448回(最終回が第1448回)
ネット局最大で全国14局
三本の自評「ゲリラ番組」「偉大なるマンネリ番組」

番組の中身も、徹底していました。

週1回、新車を1台スタジオに用意します。

そこに、その車の開発責任者が出演します。

事前に三本和彦が試乗したVTRが流れました。

試乗の舞台は、東名高速道路と「いつもの山坂道(やまさかみち)」です。

そのあと、スタジオで質疑応答に移ります。

三本和彦の質問は鋭く、開発者が返事に窮することも多くありました。

メーカーの担当者にとっては、抜き打ちテストさながらの緊張が続いたといいます

この章のまとめ
新車情報1977年にtvkで開始。三本が企画を持ち込んだ
キー局では不可能メーカーが最大の広告主のため、問い詰める番組は作れない
スポンサー戦略曙ブレーキら部品メーカー約40社で固め、メーカー本体を叩けるようにした
ゲリラ番組三本自身の自評。それでも27年9ヶ月・1448回の長寿に
抜き打ちテスト開発者を鋭く問い詰める質疑応答が名物だった
引用元・参照元
Wikipedia「新車情報」
日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録)
ネタとぴ「三本和彦氏追悼番組『クルマの過去・現在・未来』が本日29日(木)放送」(2022年12月)

第4章 こぶしとメジャー ― 徹底したユーザー目線

「新車情報」には、忘れがたい名物がありました。

三本和彦による実測です。

数字を、その場で測って見せたのです。

まず、頭上の空間でした。

三本和彦は運転しながら、頭上のすき間を握り拳で測りました。

「頭上は拳でいくつ分」という具合です。

この測り方は、1990年代の中盤まで続きました。

背の高いミニバンが増えてきたため、その後はやらなくなっています

荷室の計測も独特でした。

使ったのは、10センチごとにテープを巻いた1メートルの棒を2本です。

これでトランクの高さ、幅、奥行きを測ります。

地面から開口部までの高さも測りました。

容量は「ゴルフバッグいくつ分」という言い方で伝えています。

この棒は、インターネット上で「不躾棒(ぶしつけぼう)」と呼ばれました。

三本和彦本人も、番組終了後のDVDで「不躾棒とは、よく付けたもんだね」と笑っています。

三本流・実測の道具内容
頭上空間運転しながら握り拳で測定(1990年代中盤まで)
荷室10センチごとにテープを巻いた1mの棒2本で計測。通称「不躾棒」
容量の表現「ゴルフバッグいくつ分」
室内騒音エコー電子の計測器で測定

三本は自分の体格も引き合いに出しました。

「私のような80キロの人間が座っても」という言い方を、よく使っています。

あくまで、実際に乗る人の感覚に立った評価でした。

細かいチェックも欠かしませんでした。

ハッチゲートを持つ車では、内側の取っ手が両側にあるかを必ず確認します。

ボンネットがダンパー式かどうかも見ました。

荷室にネットが付いているかも調べています。

ホンダ・フィットでは、そのネットに7000円かかるという話まで持ち出しました。

三本がよくチェックした点内容
ハッチゲート内側の閉扉用の取っ手が両側にあるか
ボンネットダンパー式かどうか
荷室ラゲッジネットの有無(フィットでは7000円という話も)
高級車の基準室内騒音「62デシベル以上は高級車とは言わない」

番組には、決まり文句もありました。

オープニングの「いつもの様にVTRが撮ってございます」。

批評に入る前の「いつもながら不躾ではございますが」。

こうした口上も、視聴者に親しまれました。

この章のまとめ
握り拳頭上空間を運転しながら拳で測定した
不躾棒1mの棒2本で荷室を実測。ネットでこう呼ばれた
80キロの人間自分の体格を引き合いに、実際に乗る人の目線で評価
細部チェック取っ手・ボンネット・荷室ネットまで確認した
口上「VTRが撮ってございます」「不躾ではございますが」が名物
引用元・参照元
Wikipedia「新車情報」
日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録)

第5章 「三本節」 ― 毒舌の実例とその標的

三本和彦を語るうえで外せないのが、辛口の表現です。

これらは「三本節」と呼ばれました。

自動車メーカーやジャーナリズム関係者の間で、有名だったといいます。

まず、評論界に残る名言があります。

羊の皮を被った狼」と「猫足」です。

「羊の皮を被った狼」が指すのは、プリンス・スカイラインGT(2代目 S5型)でした。

おとなしい外見に、高い性能を秘めた車という意味です。

「猫足」は、しなやかな足まわりを持つ多くのフランス車を指しました。

この2つは番組での発言ではありませんでしたが、自動車業界・評論界に残る名言として扱われています。

評論界に残る名言指していたもの
羊の皮を被った狼プリンス・スカイラインGT(2代目 S5型)
猫足しなやかな足まわりの多くのフランス車

一方、「新車情報」の収録で飛び出した毒舌は、もっと容赦がありませんでした。

その多くは、デザインへの批判です。

そして、どの車を指したのかが分かっています。

ダチョウの卵」は、三菱・ミラージュ(2代目 C10系)のスタイリングへの言葉です。

この型は、当時「エリマキトカゲ ミラージュ」とも呼ばれました。

ゴムひもの緩んだパンツ」は、トヨタの2代目カムリと初代ビスタ(SV10系)を指しました。

そして記事タイトルにもした、「公衆便所のベンチレーター」です。

これはトヨタ・MR2(初代 AW系)への言葉でした。

正確には、右側リアクォーターパネルに付いたエアインテークダクトを指しています。

稲荷の鳥居(いなりのとりい)」は、ホンダ・ストリーム(初代 RN1型)のテールランプのデザインへの言葉です。

毒キノコのお化けみたいなの」は、SUVなどに見られる片側だけの補助フェンダーミラーを指しました。

「三本節」と、その標的指していたもの
ダチョウの卵三菱・ミラージュ(2代目 C10系)のスタイリング
ゴムひもの緩んだパンツトヨタ・2代目カムリ&初代ビスタ(SV10系)のスタイリング
公衆便所のベンチレータートヨタ・MR2(初代 AW系)右リアクォーターのエアインテークダクト
稲荷の鳥居ホンダ・ストリーム(初代 RN1型)のテールランプ
毒キノコのお化けみたいなのSUV等の片側だけの補助フェンダーミラー

誤解されやすい表現も、ひとつあります。

気の狂ったアヒル」です。

これはBMWの328Ciクーペを取り上げた回で出ました。

ただし、BMWの乗り心地を貶した言葉ではありません。

ダンパーを長年替えずに乗っている車の、フワついた乗り心地に対して言ったものです。

三本和彦はむしろ、BMWの乗り心地は信じられないほど良いと語っていました。

毒舌は、ときに役所まで動かしました。

三本和彦は、高齢運転者標識(紅葉マーク)を「枯葉マーク」と呼びます。

これは紅葉マークを蔑称したものでした。

放送後、三本和彦は警視庁から呼び出しを受けています。

その後、多くの自動車雑誌も「落葉マーク」と呼ぶようになりました。

役所を動かした毒舌内容
枯葉マーク高齢運転者標識(紅葉マーク)を蔑称した表現
反応放送後、警視庁から呼び出しを受けた
その後多くの自動車雑誌も「落葉マーク」と呼ぶように
この章のまとめ
三本節辛口の表現の総称。メーカーやジャーナリズム関係者に知られた
名言「羊の皮を被った狼」はスカイラインGT、「猫足」はフランス車
公衆便所のベンチレーター初代MR2の右リアクォーターのエアインテークダクト
気の狂ったアヒルBMW批判ではなく、ダンパーを替えない車のフワつきを指した
枯葉マーク紅葉マークの蔑称。放送後に警視庁から呼び出しを受けた
引用元・参照元
Wikipedia「三本和彦」(各表現の対象車に関する脚注)

第6章 業界を動かした評論家 ―「三本対策」と知られざる仕事

三本和彦は、評論するだけの人ではありませんでした。

実際に、クルマそのものを変えています。

象徴的なのが、ハッチバック車のリアゲートの取っ手です。

三本和彦は番組で、「ハッチバック車のリアゲートには、閉めるための取っ手が必要だ」と訴え続けました。

この働きかけにより、日本車のリアゲートに閉扉用の取っ手が装備された、といわれています。

自動車雑誌の中には、これを「三本対策」と呼ぶものもありました。

第4章で触れたとおり、三本和彦は番組でも毎回、取っ手が両側にあるかを確認していました。

その地道な指摘が、形になったということです。

三本が実際に変えたもの内容
訴え「ハッチバック車のリアゲートに閉扉用の取っ手が必要」
結果日本車のリアゲートに取っ手が装備された(といわれている)
呼び名自動車雑誌は「三本対策」と呼んだ

あまり知られていない仕事もあります。

カメラメーカーのニコンとの関わりです。

日本光学(現在のニコン)は、ニコンEM以来、デザイナーのジョルジェット・ジウジアーロにデザインを仰いでいます。

この縁について、三本和彦は自身のコラムで、自分が紹介したものだと記しています。

写真家でもあった三本和彦らしい、意外な裏方の仕事でした。

業界の仕組みづくりにも関わっています。

1991年、三本和彦は日本自動車研究者ジャーナリスト会議(RJC)の設立に加わりました。

山口京一、星島浩らとともに立ち上げた団体です。

カー・オブ・ザ・イヤーの選考をめぐる接待などを問題視し、公平で公正な評価を目指しました。

知られざる仕事は、もうひとつあります。

シートの開発です。

三本和彦が乗り心地について論じたことがきっかけで、ある会社とシートを共同研究します。

そこから「居眠り警告装置」の開発にもつながりました。

三本の知られざる仕事内容
ニコンとジウジアーロ両者の縁は自分の紹介だと、三本本人がコラムに記している
RJC設立(1991年)山口京一・星島浩らと設立。公平な車の評価を目指した
シート開発乗り心地の研究から、居眠り警告装置の開発にもつながった

晩年も、三本和彦は語ることをやめませんでした。

著書で、日本の自動車メーカーや交通行政に、苦言と提言を続けます。

言わずに死ねるか!日本車への遺言』(講談社)。

三本和彦、ニッポンの自動車を叱る』(二玄社)。

タイトルそのものが、三本和彦の姿勢を表しています。

この章のまとめ
三本対策リアゲートの取っ手を訴え、日本車に装備されたといわれる
ニコンの縁ジウジアーロ起用は自分の紹介だと本人が記している
RJC設立1991年、公平な車の評価を目指す団体の設立に参加
居眠り警告装置シートの共同研究から開発につながった
晩年の著書メーカーや交通行政への苦言と提言を続けた
引用元・参照元
Wikipedia「三本和彦」(リアゲートの取っ手、ジウジアーロ起用に関する記述)
日本自動車殿堂(JAHFA)「2012年殿堂者 三本和彦 自動車の在り方を拓いたジャーナリスト精神」(顕彰記録)
講談社『言わずに死ねるか!日本車への遺言』(三本和彦著、2010年11月)

第7章 27年の幕引きと晩年

27年9ヶ月続いた「新車情報」は、2005年に幕を下ろします。

この降板の理由は、二層構造になっていました。

表向きの理由と、本当の理由が違ったのです。

表向きの理由は、年齢でした。

放送第1444回、アウディ・A3スポーツバックを取り上げた回でのことです。

三本和彦は「あと4回で引退する」と、自ら勇退を発表します。

このとき、こうコメントしました。

僕より年上なのは、スズキの会長だけになってしまいました」。

しかし、本当の理由は別にありました。

テレビ神奈川との確執です。

番組終了後、三本和彦は自身のコラム「新車情報よもやま話」で、降板の本当の理由を明かしました。

tvk側の番組製作に対する、配慮のなさへの失望でした。

そこで三本和彦は、こう書き残しています。

私の心づもりでは、30年は新車情報を続けてもいいかなとは思っていた」。

しかし、こんな雰囲気では、とても続けられないという思いが強くなった」。

続ける意志はあったのです。

それを折ったのが、局の姿勢でした。

降板の二層構造内容
表向きの理由年齢。第1444回で「あと4回で引退」と勇退発表
そのコメント「年上なのはスズキの会長だけになってしまった」
本当の理由テレビ神奈川との確執。番組製作への配慮のなさに失望
本人の言葉「30年は続けてもいいかなと思っていた。しかし、こんな雰囲気では続けられない」

そして2005年4月3日、放送第1448回「新車情報大賞2005」をもって、番組は終了しました。

日本初の本格的な自動車情報番組が、歴史に幕を下ろした瞬間です。

愛車にも、三本和彦の人柄がにじみます。

「おぎやはぎの愛車遍歴」で、三本和彦は自分の愛車遍歴を語っています。

最初の1台は、1948年、17歳のときのたま電気自動車でした。

その後、ダットサン トラック、オオタ KC、シトロエン 2CVと続きます。

有名なスバル360は、その後、1958年の愛車でした。

ディーゼル好きでも知られ、カリーナのディーゼルなどを愛用しました。

ラリー参戦用に、三菱・ストラーダも所有しています。

そして晩年の愛車が、フォルクスワーゲン・ポロでした。

ただし本人は、愛車遍歴について「記憶違いもあり、定かではない」とも語っています。

三本和彦の愛車(抜粋)年・備考
たま電気自動車1948年・最初の1台
ダットサン トラック1950年
シトロエン 2CV1957年
スバル 3601958年(最初の愛車ではない)
三菱・ストラーダラリー参戦用として所有
フォルクスワーゲン・ポロ晩年の愛車

評論の根っこには、ひとつの言葉がありました。

三本和彦は、ベストカーで「金口木舌(きんこうぼくぜつ)」という連載を持っていました。

これは、優れた言論で社会を導く人を例える言葉です。

色紙には、「金口木舌」と「一期一会」と書いていました。

2012年、三本和彦は日本自動車殿堂入りを果たします。

そして2022年7月16日、91歳でこの世を去りました。