1983年ヤマハYZR500(0W70)押しがけ失敗の真相|ケニー・ロバーツが40秒苦しんだ史上最悪の始動性問題
「予選で勝っても、意味ないじゃないか」
そう吐き捨てたのは、3度の世界チャンピオン ケニー・ロバーツ 。
1983年シーズン、彼が駆っていたのは、ヤマハが満を持して送り出した最新鋭マシン YZR500(0W70) でした。
V型4気筒エンジンに、軽量な アルミ・デルタボックスフレーム という当時最先端の組み合わせ。
ロバーツ自身、ハンドリングについては「かなり良い」と認めていたほどの完成度です。
しかし、このマシンには 致命的な欠陥 があったのです。
それは、 押しがけスタート での「始動性」。
今では信じられない話ですが、当時のGPマシンは全車がエンジン停止状態からの 押しがけスタート が基本ルールでした。
普通のマシンなら、3歩から5歩でエンジンに火が入ります。
ところが、YZR500は違いました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 投入年 | 1983年 |
| エンジン形式 | V型4気筒 |
| フレーム | アルミ・デルタボックス |
| ライダー | ケニー・ロバーツ |
| ハンドリング評価 | 良好(ロバーツ談) |
| 致命的弱点 | 始動性が極端に悪い |
ユーゴスラビアGPでの悪夢:押しがけ40秒
シーズン中、特に語り継がれているのが、 ユーゴスラビアGP の一戦です。
スタートの合図と同時に、ライバルの フレディ・スペンサー は、わずか3歩でホンダ NS500 を始動。
猛ダッシュでコースへと突進していきました。
一方、ロバーツは……押し続けます。
10秒。
20秒。
30秒。
「まだかからないのか」
そして、なんと 40秒 もの間、ロバーツは押しがけを続けることになったのです。
ようやくエンジンに火が入った頃には、トップは遥か彼方。
それでもロバーツは諦めませんでした。
そこから渾身のコースレコードを連発し、 鬼の追い上げ を見せます。
しかし、届いたのは 4位 が精一杯でした。
オランダGPでも続いた悪夢
次戦のオランダGPでも、悪夢は止まりません。
押しがけ 17歩目 で、ようやくマシンに跨ることができたといいます。
「これ、レースになってないだろ」
ロバーツは強烈なストレスを溜めていました。
「予選でフロントローをとる意味がない」
「とにかく始動性をなんとかしないと勝負にならない」
そう言いたくなる気持ち、わかります。
| GP | 押しがけの状況 | 結果 |
|---|---|---|
| ユーゴスラビアGP | 約40秒も押し続けた | 4位(コースレコード連発) |
| オランダGP | 17歩目でようやく始動 | レースにならず |
| その他多数 | 始動遅延が常態化 | 予選最速も活かせず |
驚愕の事実:本当は「最速のマシン」だった
ここで、ある衝撃的なデータが浮かび上がります。
1983年シーズン全12戦。
オープニングラップ(つまり押しがけ直後の不利な1周目)を除いて計算してみると——
12戦中9戦で、YZR500がトップタイムを刻んでいた のです。
つまり、純粋な走行性能だけで見れば、YZR500は文句なしに 最速のマシン だったということ。
「最速なのに勝てない、これほど悔しいことはない」
ロバーツの言葉が、すべてを物語っています。
なぜYZR500は始動しなかったのか?2つの設計上の原因
この始動性の悪さについて、原因は2つあったと言われています。
ひとつは、 V型4気筒の狭角設計 によって 吸気管長が長すぎた こと。
これが燃料と空気の流れに悪影響を及ぼし、エンジン始動を困難にしました。
もうひとつは、 180度同爆 という爆発方式の特性。
爆発の負荷が大きすぎて、押しがけでの初爆を得にくかったとされています。
| 要因 | 内容 | 影響 |
|---|---|---|
| 狭角V4設計 | 吸気管長が長すぎた | 混合気の流入不良 |
| 180度同爆 | 爆発の負荷が大きすぎた | 初爆を得にくい |
悔しさをバネに、ヤマハは進化した
1983年シーズン、YZR500は「最速なのに勝てない」という、皮肉でしかない結果に終わりました。
しかし、ヤマハはこの悔しさをバネに、翌1984年以降、マシン改良を重ねていきます。
そして数々の栄光を手にしていくことになるのです。
「史上最悪の押しがけマシン」 という不名誉な称号は、後のヤマハの躍進を支えた、苦い、しかし貴重な経験となりました。
予選1位、本戦最下位スタート。
40秒の押しがけ。
ケニー・ロバーツとYZR500が体験した1983年の悪夢は、モーターサイクル史上に残る、忘れがたい一幕として今も語り継がれています。


