因果応報は時間差をつけて忘れた頃にやってくるって本当?

因果応報は必ずある?人を傷つけた人・悪口を言う人の末路は?

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Mr.乱視
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因果応報とは

因果応報とは、自分が何かをしたとき、その結果がやがて自分に返ってくることです。つまり、良いことをしたら良いことが返ってきたり、悪いことをしたら悪いことが返ってきたりすることを指します。

 

例えば、勉強を頑張っていい成績を取ると、将来自分が望む進路に進めたりします。逆に、勉強をサボっていい成績を取らないと、将来自分が望む進路に進めなくなることがあったりします。

 

また、誰かを傷つけたり、悪いことをしたりすると、その結果として周りから嫌われたり、罰を受けたりすることがあります。逆に、優しくしたり、良いことをしたりすると、周りから好かれたり、褒められたりすることがあるかもしれません。

 

つまり、自分がやったことは必ず自分に返ってくるということです。だからこそ、自分の行動に責任を持ち、周りの人を思いやることが大切だという考え方です。

 

因果応報と自業自得の違い

この2つは似たような意味を持ちますが、違いは、因果応報がいいことも悪いことも含んでいるのに対して、自業自得は悪いことのみに使われる点です。

 

因果応報は、自分がいい行いをしたらやがて自分にいいことが起こる、自分が悪い行いをしたらやがて自分に悪いことが起こる、という意味で使う言葉です。

 

いっぽう、自業自得は、自分が悪い行いをしたらやがて自分に悪いことが起こる、という意味で使います。

 

もっとも、実際の使用例を見ると、因果応報もほとんどのケースで悪い意味で使うことが多いようです。そういう意味で、因果応報と自業自得は「ほぼ」同じ意味と考えていいかもしれません。

 

因果応報と輪廻転生の違い

この2つも似たところがあります。でも、同じではありません。

 

因果応報は、良い行いか悪い行いかによってそれにふさわしい報いが現われることを指します。一方、輪廻転生は人が死ぬと新しい生命に生まれ変わることを指し、現世での行いが来世に影響を及ぼすという考え方です。

 

つまり、因果応報は人の一生の間に起こる因果関係を問題にしているのに対して、輪廻転生は現世と来世の因果関係を問題にしています。その点が異なるところです。

 

(※)現代の用例としては上記のようになりますが、仏教用語としての因果応報の場合、『自身の「過去の行い」だけでなく「前世の行い」の結果も我が身に返ってくると説く。』(Weblio辞書)つまり、輪廻転生とほぼ同じ意味になります。

 

因果応報は必ず起こる?

因果応報と呼べる現象が必ず発生するかどうかは証明することが困難です。

 

ですが、多くの人は、「いや、必ず起こる、起こらなければ困る、起こって欲しい、起きろ、起きなければ起こしてやろうか」と思っていることは間違いないところです。

 

つまり、因果応報が必ず起こるかどうかを証明することは困難ですが、多くの人が因果応報は必ず起こるものであり、起こって欲しい、起きろ、起きなければ起こしてやろうか、と考えていることを証明するのは、それほど困難ではないと思います。

 

自然科学の実証実験のように証明することは困難かもしれませんが、たとえばアンケートのような形で人々の考えを集計すれば、ほとんどの人は、因果応報は必ず起こるものであり、起こって欲しい、起きろ、起きなければ起こしてやろうか、と考えていることが明るみに出るはずです。

 

因果応報は時間差で忘れた頃に起こるのか?

輪廻転生は現世と来世との因果関係ですから、これを証明することはそもそも不可能かもしれません。

 

しかし、因果応報は人の一生の間の因果関係を問うものです。したがって、「因果応報なんてない」と言い切る人がいたとしたら、その人こそ「ない」ことの証明をしなければならないと思います。

 

因果応報は、その人の命が尽きるその時になるまで、起ったのか起こらなかったのか、結果を判断することはできない性質のものです。

 

したがって、因果応報は、今現在まだ起こっていないように見えても、やがて時間差で発生するだろう、忘れた頃にやってくるだろう、と考えるのが理にかなっています。

 

囚われの身になっていないか、振り返るべき

もっとも、こんな風にいつまでも執念深くある人物に因果応報が降りかかる時を待つ人というのも、一歩引いてみると、絵に描いたような醜悪な人物であり、ある意味、哀れな人であるかもしれません。

 

囚われ人、です。

 

なぜなら、そんな風に他人に因果応報が下されることを見届けるほどの執念を持ち続ける人物は、その周囲の人々から見れば、この上なく毒にまみれた人生を送っている人物に違いなく、異様な、闇世界のオーラを放っているはずだからです。

 

結語

因果応報が起こるか起こらないか、それが時間差でやってくるか、忘れた頃にやってくるか、それは、その人の命が尽きるその時がくるまで判断のしようがありません。

 

しかし、たとえ証明できたところで、それで人生が実りあるものになるかどうかはまた別問題でしょう。

 

一時、真剣に考えを深めることはいいことだと思いますが、最もいいのは、因果応報など忘れて暮らすことです。

 

ご覧いただきありがとうございました。

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